2018年9月1日土曜日

食卓からこぼれ落ちる愛 マタイ15章21節~28節

それから,イエスはそこを去って,ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

  ツロ,シドンの地は,イスラエル人が住んでいたところではありません。そこには,信仰から離れてしまった人々が住んでいました。

  すると,その地方のカナン人の女が出て来て,

  とありますが,このカナンの女も異邦人。神さまを信じる民ではありません。ところが,このカナンの女が,
 
 叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれみんでください。娘が,ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 と,イエスさまに訴えるのです。
 カナンの女は,娘がひどく悪霊に取りつかれていました。「娘を助けてほしい。」カナンの女は,必死にイエスさまに向かいました。 

 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれみんでください」
 「私をあわれみんでください」
 
 子どもの救いを求めるカナンの女は,自分には何もない。ただ神さまの恵にすがるしかない。救いはイエスさまにしかない。というころが分かっていました。だから,カナンの女はただイエスさまのあわれみにすがるしかありませんでした。
 救いはただ,イエスさまにある。イエスさまのあわれみによる。だから,何が何でもイエスさまに向かうしかない。「私をあわれみんでください」と言って,イエスさまの前に出て行くしかない。これが,カナンの女の心でした。

「私をあわれみんでください」

 「私には何もない。救いはイエスさまにしかない。だから,ただ,ひたすらイエスさまに向かう。イエスさまに祈る。ただ,イエスさまのあわれみを求める。」私たちにはそのことしかできません。
 
 神さまの前に立ったとき,「自分には何もない存在だ」と告白するしかありません。私たちが人と比べていくらかのものを持っていたとしても,神さまの無限の前には0と同じです。自分で自分を救うことはできません。救いに必要なものを何一つ持っていません。そのことを本当に認めるとき,私たちもカナンの女のようにイエスさまに向かうしかありません。そして,私たちから出てくる祈りも,カナンの女のように「私をあわれみんでください」しかないのです。
 
 しかし,私は私の心にはいつも高さがあることを感じます。口ではなんといっても,心密かに,「自分には○○がある。自分は○○でやっていける。」と思ってしまいます。人と比べ,私はまだましだ。私には,○○があると思う。そう思いたい。その思いが祈りを妨げます。「私はあわれみを受けるような惨めな人間ではない」その思いによって祈りの応えを受け取り損ねます。心密かに持っている私の高さ,それがイエスさまの祝福を拒否してしまします。
 
 もし,高ぶりをもったままで祈りの答えが与えられたら,祈り通りの事実をいただいたら,私たちは一層高ぶるもの,神さまを侮るものになっていくかもしれません。自分を主をして,イエスさまを自分の思いを実現させる道具のように思ったら,それはもう信仰ではありません イエスさまの祝福は,心低きものに注がれます。そして,イエスさまは,私たちをその場所に導きたく願っておられます。だから,
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれみんでください」
と祈るカナンの女の姿は,本当に慕わしく思えます。

 「私をあわれみんでください」

ひたすら求めていくカナンの女に,イエスさまはどう答えたのでしょうか。

  しかし,イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。

  イエスさまはカナンの女に一言もお答えになりませんでした。イエスさまは沈黙されたのです。そして,弟子達の願いを受けて語られたイエスさま,
 
  「わたしは,イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」

  イエスさまは,わたしとあなたは関係ないと答えられました。カナンの女は,沈黙の後,あなたは私とは関係ないと拒否したのです。
 そのとき,カナンの女はどうしたのでしょうか。

   その女は来て,イエスの前にひれ伏して,「主よ。私をお助けください」と言った。

  カナンの女は,一層心低い姿をみせました。イエスさまの前にひれ伏して「主よ私をお助けください」と  とイエスさまに懇願したのです。
 神さまの沈黙のとき,私たちの心には,「どうして答えないのか?」と責める,怒りの気持ちが浮かんでくるかもしれません。しかし,神さまからの答えがないとき,沈黙のとき,それでも私にはイエスさましかいない。ひれ伏して,一層へりくだって求めていくしかない。それがカナンの女の心でした。実はそれが神さまが求めておられる信仰です。
  神さまが求めておられるのは信仰です。イエスさまは,祈りの中で「どんなに沈黙されても,どんなに拒否されても,きっと神さまが答えてくださる」という信仰がもてるように導いてくださいます。

 この心低きカナンの女に対して,イエスさまは,さらに思いがけない言葉をかけます。

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」 

 子どもたちというのは,イスラエル人のこと,カナンの女は異邦人。神さまの民ではない異邦人を,イスラエル人は犬と言って馬鹿にしていました。

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」

  というのは,神さまの民ではないあなたに,恵を与えるのはよくないということ,ひたすらイエスさまに向かうカナンの女の願いを退けるように受け取れる言葉です。
 このイエスさま言葉,普通ならなかなか受け取れません。これだけ,ひらすらイエスさまを求めているのに,異邦人ということで拒否するのですから。

 ところがカナンの女は,イエスさまの言葉を受け入れます。

「主よ。そのとおりです。」

「犬」と呼ばれてもそのまま受け取る。軽蔑されても,「主よ。そのとおりです。」と。自分の思いを打ち砕く言葉のように思える言葉でも,

「主よ。そのとおりです。」 

と,ただ,ただ受け入れたのです。 

 私たちの心の奥底にあるのは,「我が思い為させたまえ」自分の思いを実現させることです。私たちは,どんなことをしても自分の思い通りにしたいのです。そのためなら,なんでもします。カナンの女は,自分の子どもが癒やされるためなら,人に何と思われようがひたすらイエスさまに訴えました。 

 「私をあわれみんでください」 
 イエスの前にひれ伏して,「主よ。私をお助けください」

イエスさまに向かうこと,それも,もしかしたら,心低く,イエスさまに向かえば,自分の子どもを癒やしていただけるかもしれないという思いが,心のどこかにあったかもしれません。しかし,

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」

 「自分の子どもを癒やしていただきたい。」という思いに留めを指す言葉です。この言葉を受け入れたら,もしかしから,自分の子どもが癒やされないかも知れない。自分には何もない,救いはイエスさましかない。だから,カナンの女はイエスさまに心低くすがってきました。しかし,その結果行き付いた所は,「自分の思いを全て捨てなさい」と思える言葉でした。

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」

 あなたの思い通りにはならないよ。と思える言葉です。この言葉を受け入れると自分の子どもが癒やされないかも知れない。けれども,カナンの女は,イエスさまのお言葉を受け入れました。

  「主よ。そのとおりです。」

 主よ。本当にそのとおり,私は卑しい罪人です。そして,本当にそのとおり,イスラエルの民に与える恵と祝福と愛を,わざわざ私たち異邦人である小犬に与えるのはよくないことです。カナンの女は自分の罪深さを認めました。カナンの女は,イエスさまの言葉を受け入れました。すべてをイエスさまに委ねました。すべてをイエスさまにお任せしました。

 「私をあわれみんでください」 
 イエスの前にひれ伏して,「主よ。私をお助けください」

と心低くイエスさまに向かったカナンの女は,「自分の思いを捨ててイエスさまを受け入れる,イエスさまに委ねる」という最高の謙遜の姿を見せました。

  「主よ。そのとおりです。」

 自分の思いを捨てて,イエスさまの言葉に生きる。イエスさまに委ねる。カナンの女はイエスさまを前にして,自分の信仰を表明しました。

 私たちの祈りにも同じようなことが起こります。あることを祈る,祈り続ける。けれども,イエスさまの答えは,「自分の思いを捨てなさい。イエスさまを受け入れなさい。イエスさまに委ねなさい」であったということです。私たちは,このイエスさまの導きをなかなか受け入れることができません。「自分の思いを捨てなさい。」…自分に死ぬとも等しいこと。しかし,イエスさまは私たちも導かれます。

  「主よ。そのとおりです。」

 神さまに一切を委ねる祈りに導かれます。その瞬間から,不思議な神さまの祝福を経験する。私たちも同じ証をもつことができます。

  「主よ。そのとおりです。」
 
 そう答えたとき,イエスさまに一切を委ねたとき,イエスさまにすべてをお任せしたとき,カナンの女の心にやってきたのは,自分の娘の癒やしを諦める悲壮感だったでしょうか。そうでは,ありませんでした。それは,カナンの女の口から思わず出てしまった次の言葉でわかります。

  「主よ。そのとおりです。ただ,小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

  「ただ」と訳されている場所には,原語のギリシャ語では,「そして」,「なぜなら」言葉がおかれています。新改訳聖書では,「なぜなら」では意味が通じないと思われるので,「ただ」という言葉に置き換えています。「そして」ということばのみの聖書もあります。しかし,私は「そして」,「なぜなら」という原語が一番カナンの女の信仰を表していると思います。
 カナンの女の言いたいことはこのようなことではなかったかと思います。

   主よ。本当にそのとおり,私は卑しい罪人です。
   そして,本当にそのとおり,イスラエルの民に与える恵と祝福と愛を,わざわざ私
  たち異邦人である小犬に与えなくても結構です。なぜなら,卑しい私は,神さまの愛
  のおこぼれ(パンくず)をいただくだけで十分だからです。娘は食卓からこぼれ落ち
  るイエスさまの恵と祝福」によって救われるからです。

 
 カナンの女が「主よ。そのとおりです。」  と答えたそのとき,カナンの女は,自分が本当に卑しい存在,罪人であること,小犬であることを認めました。そして,自分の思いを捨てました。すべてをイエスさまに委ねました。を同時に,カナンの女の心には,愛に満ちたイエスさまのお姿がカナンの女の心に強く響いてきました。イエスさまの大きな愛にふれたのです。
 
このことは,理屈ではありません。カナンの女に起こった事実です。

 カナンの女は,「主よ。そのとおりです。」と答えたそのとき,自分の罪深さを認めました。同時にイエスさまの愛を受け取ることができました。そして,小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。食卓からこぼれ落ちるイエスさまの愛を告白することができたのです。

 「イエスさまの愛は,本当に大きい。だから,イスラエル人へ注がれる恵と祝福のほんの少しのおこぼれをいただくだけで十分。「パン」ではありません。「パンくず」です。「パンくず」というほんのわずかのイエスさまの愛のおこぼれで娘は救われる。」カナンの女はそう信じたのです。

 イエスさまの愛は,人知をこえています。わざわざ,イスラエルの民に注ぐ恵と祝福と愛をを求めなくてもよい。食卓からこぼれ落ちる恵と祝福,愛の大きさ,すばらしさを信じて,「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」と答えることができたのです。

「ああ,あなたの信仰はりっぱです。その願い通りになるように。」

とおっしゃるほどの大きな信仰です。イエスさまの大きな愛を信じるカナンの女の信仰によって娘は癒やされたのです。
 
 私たちにも,自分の思いとは全く異なる答えをいただくことがあります。思ってみない事実をいただくときがあります。そのとき,私たちは,イエスさまがあたえてくださった答えや事実をなかなかうけとることができません。
 それは,私たちがイエスさまの恵と祝福,愛を自分で小さく限定してしまっているからかもしれません。カナンの女は,「主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」といいました。ここでいう「食卓」とは,「イスラエル」のことを指していますが,わたしたちは,イエスさまの恵と祝福,愛を「食卓」という小さなスペースに限定してしまうのです。私の信仰は,イエスさまの恵と祝福,愛を「食卓」という自分の考え常識という小さな範囲でしか考えることができません。そこには,高さがあります。自分の理屈,常識,が信仰より先立っています。だから,イエスさまが与えてくださる答えを,恵と祝福を受け止められないのです。
 
 ですから,私たちは,カナンの女のように歩むしかありません。沈黙のときが長く続いても,拒否されるように思うときも,カナンの女のようにへりくだってイエスさまを追い求めます。私には何もないから祈ります。イエスさまに一切があるから祈ります。イエスさまと向かい合います。イエスさまの前に出て行きます。自分の思いをイエスさまにぶつけていきます。本当にイエスさまと向かい合うのです。
 すると,イエスさまは私を,カナンの女のように,「主よ。そのとおりです。」という祈りに導いてくださいます。「主よ。そのとおりです。」と祈ったそのときは,私が弱い,罪人であることを心から認めたときです。自分の思いを捨てたそのときです。同時に,イエスさまの大きな愛にふれることことができたそのときです。そして,それは,自分の思いとは全く異なる答えや事実の中に,「食卓からこぼれ落ちる愛」を信じることができたときでもあります。「食卓」という自分の理解を超えたイエスさまの愛を見出すことができたそのときです。

 カナンの女が言うとおり,「主人の食卓から落ちるパンくず」,イエスさまの「食卓からこぼれ落ちる愛」がイスラエル民族を超えて全世界に与えられたことは,歴史が証明しています。イエスさまが十字架にかけられた後,福音は,救いは全世界に伝えられ,全ての人々がイエスさまの愛を,救いを受けることができるようになりました。現在は,卑しい小犬,日本人の私も神さまの愛のおこぼれ,主人の食卓から落ちるパンくずをいただいています。私たちもイエスさまの恵と祝福,愛をいただいています。イエスさまの愛は,カナンの女の言うとおり,人知を超えた本当に大きなものでした。

 「主よ。そのとおりです。」

 それは,自分の思いに死んで,神さまに一切を委ねた言葉であるとお話ししました。しかし,この言葉は,食卓からこぼれ落ちる恵と祝福,『食卓からこぼれ落ちる愛』に心から同意する言葉でもありました。

 「主よ。そのとおりです。」なぜなら,イエスさまの愛は本当に大きく,食卓からこぼれ落ちる恵と祝福,『食卓からこぼれ落ちる愛』は,本当にすばらしいと私は信じます。」
 今日の箇所で,一番私が教えられたのはこのことです。イエスさまの愛を,そのご計画の自分のちっぽけな頭ではとても理解できません。「食卓」という小さな世界に限定してしまうのが私です。しかし,「食卓からこぼれ落ちる愛」がどれだけすばらしいか。そのことが分かったとき,私は嬉しくなりました。

 そして,私たちは,『食卓からこぼれ落ちる愛』を信じる信仰を表明するその前に,

  「主よ。そのとおりです。」

という祈りがあったことを忘れてはいけません。神さまは,ご自分の愛を示されるそのとき,自分の思いを捨て,ただ,イエスさまに委ねて,イエスさまにお任せする祈りに導かれます。

 「主よ。そのとおりです。」

 自分に死んで,イエスさまに生きる祈りが与えられるのと全く同時に,イエスさまの圧倒的な愛,『食卓からこぼれ落ちる愛』を示されるのです。

 イエスさまの導きの中で,「主よそのとおりです」と祈ることができたら本当に幸いです。それは,自分の思いをすてるときです。自分の弱さや罪を心から認めるときです,同時にイエスさまの大きな愛にふれるそのときです。

 だから,私たちは,イエスさまにもっと向かい合いたい。「主よ。そのとおりです。」という祈りに導かれたい。自分の弱さや罪を心から認めたい。そして,イエスさまの愛に圧倒されたいと思いました。

 祈りを通して、イエスさまが導かれるのは,自分の思いとは全く異なる答えや事実の中に,「食卓からこぼれ落ちる愛」を信じる信仰だからです。

2014年3月15日土曜日

心を神さまの御前に注ぎ出す者 ~詩篇62編1節、8節

一つの詩篇の中で反対の意味をもつ二文がある。

のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。(詩62編1節)
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。(詩62編8節)

矛盾するような2つの文がどうして同じ詩に出てくるのか。
でも、これが、信仰者の経験なのだ。

あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。(8節)

こう語る詩篇の記者「私」は、まず自分ことを
自分のすべての思いを神さまの前に申し上げていっただろう。

つらいです!
助けてください!
自分には力がないのです!
うまくいかないのです。
知恵がないのです!
助けて!
救ってください!

自分の罪は私の前にあります!
私は神さまを信じることができません!
私には信仰がありません!
神様 ただ憐れんでください!

自分に向かうのではない。
人に向かうのではない。
ひたすら神様に祈っていく。
ありのままの、そのままの思いを。

そうして、祈り抜いていくとき。
私の救いは神から来る。(1節)

が自分の言葉になった。
同時に、神様にすべてをゆだねた、お任せした。
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。(1節)
から始まる詩篇62篇が自分にとって真実の言葉になった。

だから、
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。(8節)
と確信をもって語れる。

2014年2月20日木曜日

その知恵にふさわしい柔和な行いを(ヤコブ3章13節)

あなたがたのうちで、知恵のある、賢い人はだれでしょうか。その人は、その知恵にふさわしい柔和な行いを、良い生き方によって示しなさい。(ヤコブ3章13節)

この御言葉は、「知恵ある人=柔和」であれ。と勧めている。
ということは、「知恵のある人が柔和ではない」という現実があったということだ。

この言葉で、私は一つの経験を思い出した。

田舎者の私が、東京に出てカウンセリング理論の勉強をした。
いい勉強をしたと思って、職場に帰り、ケース会に参加。
すると、ケース会の話し合いの中にうまく溶け込めない自分を感じた。
自分が学んだカウンセリングの知識をあてはめて、
参加者の意見の間違いを指摘したくなったからだ。

(私が学んだ理論からすると)その考えは違う!
他の参加者の意見を否定したくなる。
すると、かえって建設的な意見が言えなくなってしまっている自分に気づいた。

知識そのものに問題はない。
問題は、知識を剣にして、人を切ってしまう、自分自身。
知識、を身につけれるほど、
人を否定する。柔和とは反対の方向にいってしまうの自分の姿。

本当の知恵は十字架にかかって私の罪のために死んでくださったイエス様の内にある。
自分が得た知識で人を裁く自分の姿
そのままでイエス様のところにいくとき、
イエス様の柔和さが私の内に現れる。

それが
「知恵にふさわしい柔和な行い」(ヤコブ3章13節)


2014年1月25日土曜日

信仰の成長とは何か~ヨセフの生涯を通して~

創世記37章 17歳のヨセフの信仰について2つの受け止め方がある。
  ア ヨセフは未熟である。
  イ ヨセフの信仰はすばらしい。
詳しくは2012年1月このブログで紹介した。
(http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2012/01/blog-post_08.html )

私は、イの立場を取ると書いたが、手持ちの注解書を読むとイの方が少数派のようだ。
アの立場は、新聖書注解、最近出たBIBLE navi。
ともに、ヨセフが高慢であったと書いてある。

すべてがアという訳ではない。
沢村五郎先生は、「聖書人物伝」に、「その生涯を貫いて、どのような小さなことについても一点の過失を見いだしえないのはヨセフだけである」と書いている。
パゼット・ウイルクス先生は「創世記講演」に、「彼(ヨセフ)の伝記には欠点が一つも記されて居らぬ故に完全なイエスの型と見ることが出来る」と書いている。

私は、「信仰とは何か」「信仰の成長とはなにか」いろいろと黙想していた。

いろいろなことが分かってきた。

前回(2012年1月)このように書いた。
「神様からのメッセージに自分の思いや考えを加えたり、人への配慮で曲げたりせずまま受け取る、そのまま伝える。これが、信仰者の姿だ。」

ヨセフは生涯このことを貫いていった。17歳の若者のときから、エジプトでその生涯を閉じるまで。ヨセフは、裏切りがあり、不義があり、罪ある自己中心な人々の中で、その社会を生き抜いた。神の言葉を決して曲げず、直面する多くの問題を解決できる信仰に高まった。

ここに、信仰の成長がある。つまり、

自分を愛し守る人々の中でもつ信仰
     ↓(から)
不信仰の人々、誘惑をしかける人々に囲まれたこの世を生きる信仰


神さまは、私たちにも、この異教の社会の中で生きていくことを求めておられる。
悪い人もいる、誘惑もある,、理不尽なことがたくさんあるこの世を生きろと命じられる。

そして、
神さまを信頼して、神さまとともに生きているか。
人におもね、(憎まれないように)神の言葉を曲げることは無いか。

私たちに問いかけられる。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ書1章2節~4節)

2014年1月12日日曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (0)「愛を追い求める」歩みとは

※ この項を読むときには、まず、(0)を読み、その後(1)、(2)、(3)…と読み進めて下さい。


愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
という御言葉がある。
美しい言葉だが、どのような姿が「愛を求める姿」なのか、この御言葉だけではわかりにくい。
私たちはどのような姿を求めていけばよいのだろう。


これこそ愛であるという聖書箇所がある。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(Ⅰヨハネ3:16)
似た箇所が何カ所かある。 ヨハネ3:16、ヨハネ15:13、ロマ5:8、エペソ5:2、Ⅰヨハネ4:10
イエス様は私たちの罪のために十字架にかかってくださり、私たちのそ罪を担って下さった。 そのことこそ愛であるというのだ。

このことから、「愛を追い求めなさい」とは、
「私たちのためにいのちをお捨てになったイエス様の愛を追い求めていきなさい」
といいかえることができると思われる。

Ⅰヨハネ3:16ではさらに言葉を続け、、「愛を追い求める」私たちの姿を明確に示す。
ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(Ⅰヨハネ3:16)

イエス様は命を捨てて愛を示された。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てて、愛をすべきだというのだ。

「愛を追い求めなさい」とは、
「私たちも兄弟のために命を捨て続けていきなさい」
といいかえてもよい。

でも、一つしかない、私の命を捨て続けるとはどのようなことなのだろうか。
丹羽鋹之先生は自らの講解の中で明確に語っている。引用する。


「私はこうして生きているけれど私は死んだ者で、本当の私の命はキリストです。それが私たちクリスチャンです。そうであれば、私たちキリストにある兄弟姉妹の交わりは、お互いが死んだ交わりではありませんか。生まれながらの私は死んで、キリストにある一つの命にある交わりです。それが教会の交わりであり、クリスチャン同士の関係です。それならば、キリストは私たちのために死んで下さった、それを信じる私たちも兄弟のために死ぬのは当然であります。私たちは自分という者に死んだ者ですから、その交わりはお互いに死に合っていく交わりです。そこがこの世の交わりと全然違うところです。これが御霊にあってはっきりされていけば、交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」
                (丹羽鋹之聖書講解「キリストの交わり」Ⅰヨハネ3:16~20より抜粋)

「交わりの中で自分を捨てていくこと、互いに死に合っていくこと」これが「愛を追い求めていく」具体的な姿の現れであるということだ。それは、自分の考え、自分の思い、自分の体験、自分の正しさそのすべてを捨てていくことでもある。
私たちは、「これが神様にある歩みだ」という確信をもつと、そのことで自分の正しさを主張してしまう。そして、互いに受け入れ合っていくことができなくなってしまう。そこから、数々のトラブルが生まれていく。そんな私たちに、Ⅰコリント13:4~7では、

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

と語られる。

「あなたは、ここで示される愛がないことを認めよう。そして、自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛である私(イエス様)に一切を委ねて歩もう。すると、私(イエス様)愛の働きを喜びと感謝をもってみることができるよ」

とイエス様は語りかけておられる。そのように歩むことが「愛を追い求める」歩みだ。

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (1)へ

2014年1月4日土曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (6)それでは日常的な愛はいらないのか?②~私の証②~

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (5)それでは日常的な愛はいらないのか?①に関連して、再び私の証を紹介する。

証①からかなりの年月が流れ、私は、私の教会に新たに赴任した牧師の言動に対して裁きの心が起こっていた。

配慮がたりない。そこで、それをいう?ということが多々あった。
特に、牧師先生の家族への発言には腹がたった。
学校に行けなくて悩んでいる孫に対して、
「あんな孫はこれまでいなかった」と語る。
お孫さんの痛みに対する共感はないのか。
なんて上から目線なのか。

私は、この思いをひたすら神様にぶつけていった。
2、3ヶ月は祈っただろうか。

すると、あるとき、その牧師先生の礼拝メッセージでの証が心に響いてきた。

それは、その牧師先生がまだ、20代半ばのころ。
年上のインテリな青年、インテリ故に前に進めなかった、信仰がもてなかった青年に対して、
「プライドを捨てなければいけませんよ」とアドバイスしてしまったというのだ。
年上の、しかもプライドの高いインテリ青年に対して。

牧師先生も、さすがに「しまった、いっちゃった」と思ったとのこと。
ところが、しばらく、沈黙が流れたそのとき、年上の青年が、
「おっしゃるとおりです。私は神様を信じます」
と告白した。
その先生は、献身し現在も牧師を続けているという。

この証を聞いて、私は、まず、
そうか、この先生は、昔から配慮が足りなかったのだ。
と思った。次に、
でも、この配慮の足りない牧師先生を通して神様は確かに働かれたのだ。
と思わされた。そして、
大切なのは、牧師先生の配慮の足りなさに目を留めるのでは無く、牧師先生を通して働く神様の働きを尊んでいくことなのだ。
ということが心に響いてきた。

そのとき、私の中から裁きの心が消えていた。
神様の愛の働きに感謝する心にいっぱいになった。

これが、祈りの答えだった。
神様のなさることは本当に不思議である。


愛する技術を習得する努力は悪いことではない。
日常的な配慮ができるのにこしたことはない。
しかし、その努力が自分の義となってしまった私に、
「自分の正しさを捨てて、愛を追い求めなさい。」

とイエス様は語られる。

自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねて歩む。そして、イエス様の愛の働きをただ、感謝と喜びをもって見ていく。愛を追い求める歩みは、本当に奥が深い。

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (5)それでは日常的な愛はいらないのか?①

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
という御言葉について説明してきた。

ここまでくると、問いが生まれる。
それでは、日常的な愛はいらないのか。

配慮
傾聴
愛の言葉かけ
贈り物

日常的に、相手の人を大切にする行為は確かにある。
その中には、技術的なこともあり、努力によって習得できることがある。
愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)という御言葉と日常的な愛、配慮、努力して習得する技術との関係はどうなのだろう。

私は、若い頃、「あなたは配慮が足りない」
と恩師(クリスチャン)からよくおしかりをいただいた。

そこで、私はここでいう「相手の人を大切にするための技術」について学んできた。

 ・来談者中心療法
 ・短期療法特に解決思考ブリーフセラピー
 ・認知行動療法
 ・内発的動機付けに関する研究
 ・統合失調症、鬱病や人格障がいについて
 ・発達障がいについて

これらの知識や技術は、私の日常的な人とのかかわりを大きく変えた。私は、弱さをもった人によりそい、その人にフィットしたかかわりを模索するようになった。そして、「ほんの小さなほほえみ」や「感謝の一言」の大切さを一層実感した。


人のために技術や知識を用いていくことは当然ある。
それは、日常の中のささやかな配慮となって現れる。
しかし、その知識や技術をもっている自分を、
神様の前に10点、20点…としていく価値あるものと認識するとことから、
私たちの間違いが始まる。

多く見られる例、それは、「人を愛する技術を持たない人を裁く」姿が現れることだ。

あの人は配慮が足りない。あれでは人を傷つける。
裁きの心がふつふつとわいてくる。

本気になって人を愛する努力(技術の習得)をした人ほど。
その傾向がある。

そのとき、改めて、「愛を追い求めなさい」(Ⅰコリント14:1)が迫ってくる。

自分には愛の無いことを深く思い、神様に求めていくか。それとも、自分を価値づけて人に要求するかが問われる。

ここで、失敗してしまう人もいかに多いことか。

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)とは、愛する努力をした人(技術の習得)にも語られる言葉なのだ。

愛を追い求めなさい(6)へ
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