2012年10月20日土曜日

自分を主としてしまう私へ① ~ヨハネ6章15節~


そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネ6章15節)


イエス様は、5000人を5つのパンと2匹の魚で養った。人々は、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」といってイエス様を自分たちの王にしようとする。

力のある人を人の自分の上に立てたい。そんな心理が私たちにはある。
力ある人の下にいれば、自分は安心できる。守られるような気がする。
自分も力ある人のような気がする。
自分も力ある人になれる気がする。
そして、自分も力ある人のように、自分の思うようにできるような気持ちになる。

こうやって考えると、この心理は、自分の思いを実現するために力ある人を利用しているということになる。

あくまでも自分を主としている。
力ある人に従っているように見えるが、本質的には自分を変える気持ちはない。
そのようなことは、私たちの周りにいくらでもある。


イエス様を王にしようとする人々は、イエス様を王にしても
イエス様を「神の子」イエス様とあがめようとする気持ちはない。
自分の思いを実現してくれる道具として見ていた。
イエス様を利用しようとしていた。
本質的に、イエス様に従おうとする気持ちはなかった。

イエス様が、ただひとり、また山に退かれた。のは、
そのような人々の姿を見抜いていたからだ。

イエス様は山で神様に祈った。
人々が、心からイエス様を我が主として迎え、イエス様に仕えるものになりますように。
その祈りが、イエス様を、湖で吹きまくる強風に悩む弟子たちのもとに導く。


私たちも、自分を主として、イエス様を自分の思いの実現のための道具として利用していることはないか。
もしかしたら、ほとんどの祈りがイエス様ではなく、自分を主としている祈りかも知れない。

そのとき、イエス様は、
ただひとり、また山に退かれた
とあるように私たちの前から姿を隠される。
そして、私たちのために祈って下さる。

自分を主とする信仰から、イエス様を主とする信仰へ転換することは、
自分の力ではできない。
ただ、ただひとり、また山に退かれたイエス様の祈りによる。















































































2012年10月13日土曜日

私はどちらの場所にいるか~ヨシュア5章13節~15節


ヨシュア記5章13節~15節
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。


私たちは、日々いろいろな出来事に遭遇する。いろいろな人に出会う。その出来事や出会いによって一喜一憂する。
だから、悪いことがおこらないように、いい人に出会えるように、と祈る。
それが、私たちに幸せをもたらす鍵になると思えるからだ。


ヨシュアのように、これから戦いに向かう、しかも相手は強敵であればなおさら。
抜き身の剣をもって一人の人が現れれば、その人が自分にとって味方か?自分にとって敵か?と問う。
相手が自分の側に立っているのか、敵の側にたっているのか。
それが重要問題のように思えるからだ。


しかし、その一人の人の
「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」
という言葉は、ヨシュアを私たちの価値観と別の場所につれていく。

「相手が、自分の側に立っているのか、敵の側に立っているのか」ではない。
「自分が神様の場所にいるか、そして、その場所で足のはきものを脱いでいるか。」
と私自身が問われたのだ。

私が、素足でこの神様の地に立っているか。
私が、何も身につけないで神の手にすべてをお任せしておるか。
私が、ただ、神様のものになっているか。
私が、自分の身をおくところは神様の手の中か。

それが、戦いを勝利するための鍵となる。
神様の御手の中にさえあれば、すべての戦いに勝利することができる。
それがクリスチャンの信仰なのだ。


私はどちらの場所にいるのだろう。
「相手や状況が自分にとってどうか」を問う場所か。
「自分が神様の御手の中にあるか」を問う場所か。
私たちが立つのは2つのうちのどちらかしかない。
そして、後者の場所こそ「聖なる所」だ。

相手を問うのではない、状況を問うのではない。
私自身を問うものこそクリスチャンの道だ。


どんな相手でも、どんな状況でも。
私が、神の手にすべてをお任せしておるか。
を問う者になりたい。
そして、自らの足の靴を脱ぐものになりたい。








2012年8月24日金曜日

カインの罪に対する解放の道~放蕩息子兄との対比を通して~創世記4章5節

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4章5節)

しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。(ルカ15章29節)


創世記4章では、よくカインとアベルが対比される。また、ルカによる福音書15章に出てくる放蕩息子の譬では、兄と弟が対比される。
しかし、私は、カインと放蕩息子兄を対比すると神様の恵みがよく分かると思う。

最初に、カインは放蕩息子兄の似ている点をみてみる。

カインも放蕩息子兄も2人兄弟の兄。家庭の中で似たような環境にあった。

その2人が特に似ているのは、神様に対する心。
どちらも、「神様に対する奴隷の気持ち」を持っていた。
放蕩息子兄の言葉「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え…」(ルカ15章29節)の「仕える」は奴隷として仕えるということを意味していることからそのことが分かる。
カインは熱心に地を耕した。そして、地の産物を持ってきて主に供え物とした。そのときの心も「備えなければ…」という心。放蕩息子兄と同じ「奴隷の心」だった。だから、カインの供え物は神様から顧みられなかった。

兄よりも弟の方が父から愛されているように見える状況に置かれたというのも似ている。
カインは、自分の供え物は神様から顧みられなかったのにアベルの供え物は喜ばれたということを知る。
放蕩息子の兄は、自分に対して一度も宴会が開かれることがなかったのに、放蕩の末帰ってきた弟に対して宴会が開かれたということを知る。

大きく異なるのは、このときの2人の姿だ。

「それでカインはひどく怒り、顔を伏せた」(創世記4章5節)
神様に向かわなかった。怒り、悔しさ、アベルに対する嫉妬、憎しみ、そして自己憐憫。カインのそのときの気持ちを神様に向けず、自分のへそのほうに向けてしまった。自分でその気持ちを抱え込んでしまった。自分でなんとかしようとしてしまった。

神様は愛をもって、「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」その思いをすべて私にぶつけなさい。とカインに働きかける。神様が愛の方であることは、カインの時代も放蕩息子兄の時代も今の変わらない。

しかし、カインの心は下をむいたままだった。弟アベルを殺すこと、自分で自分の気持ちの処理をすることを選んでしまった。


イエス様は、放蕩息子の譬の中にカインとは異なる放蕩息子兄の姿を示す。
放蕩息子兄は、カインのように下を向かなかったのだ。

ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。(ルカ15章29節)
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(ルカ15章30節)

自分の怒りを神様である父にすべてぶつけた。怒り、悔しさ、放蕩息子弟に対する嫉妬、憎しみすべてを神様にぶつけた。放蕩息子兄はこのとき、下を向かず、神様に向かった。

放蕩息子兄は、自分の思いを自分で処理しなかった。怒りにみちた自分のすべてを神様に差し出した。


そこで、放蕩息子兄は愛に満ちた、神様の声を聞く。
「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」(ルカ15章31節)
神様は、カインに語ることのできなかった。カインが聞こうとはしなかった神様の御心を放蕩息子兄に語ったのだ。
その場所で、放蕩息子兄は神様の愛に触れることができた。


イエス様は、放蕩息子の譬を通して、カインの罪に対する解放の道を示したのだと思う。
下をむくのではない。自分の思いのすべてをもって神様にむかうこと、怒りに満ちた自分自身を神様に捧げる。そうすれば、カインは神様の愛に触れ、罪の道ではなく、恵みの道を歩むことができた。
カインがささげるべき供え物、それは、
「怒りに満ちてどうすることもできない自分自身」であったのだ。


この譬を聞いた、パリサイ人、律法学者は、結局カインの道を選んだ。カインのように、イエス様を殺してしまう。人の罪は本当に重い。

しかし、その後、クリスチャンは、イエス様の十字架によって、「放蕩息子兄の道」を歩むこと。信仰の道を歩むことができるようになった。

イエス様が放蕩息子兄の譬を示したのは、いつのまにか神様の恵みを忘れ奴隷の心になってしまう、カインの心をもつ私たちへの愛のメッセージなのだ。
イエス様は、私たちがカインの道を歩むのではなく、
「怒りに満ちてどうすることもできない自分自身」を神様にささげるという放蕩息子兄の道を歩み、
神様の愛を知るものに導いて下さるのだ。

2012年8月12日日曜日

Ⅰヨハネ3章16節 兄弟のためにいのちを捨てる こと

昭和52年6月2日祈祷会に語った「キリスの交わり」という丹羽先生の講解が心にせまってきた。


Ⅰヨハネ3章16節
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」
という御言葉についてこう語っている。引用する。

「私はこうして生きているけれど私は死んだ者で、本当の私の命はキリストです。それが私たちクリスチャンです。そうであれば、私たちキリストにある兄弟姉妹の交わりは、お互いが死んだ交わりではありませんか。生まれながらの私は死んで、キリストにある一つの命にある交わりです。それが教会の交わりであり、クリスチャン同士の関係です。それならば、キリストは私たちのために死んで下さった、それを信じる私たちも兄弟のために死ぬのは当然であります。私たちは自分という者に死んだ者ですから、その交わりはお互いに死に合っていく交わりです。そこがこの世の交わりと全然違うところです。これが御霊にあってはっきりされていけば、交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」

イエス様にあって死んだ者として、交わりの中でも自分を捨てていく。互いに死に合っていく。それは、自分の考え、自分の思い、自分の体験、自分の正しさそのすべてを捨てていくことでもある。
 
「これが神様にある歩みだ」という確信をもつと、そのことで自分の正しさを主張してしまう。そして、互いに受け入れ合っていくことができなくなってしまうというのが私たちの現実だ。

「交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」

そこにイエス様の愛が、イエス様の命が現れる。








2012年6月11日月曜日

二人の祈りは神様に期待して~でも相手を尊んで~(マタイ18章19節)

まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。                                               (マタイ18章19節)

大学時代KGK(キリスト者学生会)に所属していた。
昼休みにはDPMといってクリスチャンが一つの部屋に集まって祈り合っていた。
そのサークルに3年生のI先輩がいた。

私は、1年生。信仰に入ったばかりで弱々しく自分に自信がない頃だった。
ところが、そのI先輩とペアになった私に、
「私には、○○、○○という課題があるので祈ってちょうだい」
と言った。私はびっくりした。
私みたいな弱々しい者が先輩のために祈っていいのですか。
と心の中で思った。

その内容は忘れてしまった。
今思えば深刻な問題では無かったと思う。
でも、I先輩は自分の弱さを率直に語っていた。
よほど親しい友達でも話さないかもしれない、と思うような課題だった。

祈りながら、自分がとても大切にされているように感じた。
私は、私に「祈って」といったその先輩を心から尊敬した。
そして、その後、私の弱さや課題をその先輩に話し祈ってもらうようになった。
I先輩は私のあこがれの、大好きな先輩になった。

後で、分かったことだが、そのグループでは、顧問のM先生に、
「兄弟姉妹に祈ってもらうときは、祈ってもらう相手に期待してはいけません。
相手が祈りの中で向かう神様だけに期待するのです。」
と指導を受けていた。
I先輩は、その指導を忠実に実行していた。
だから、相手の能力や信仰の強さに関係なく、
自分の祈りの課題を私に率直に話すことができたのだ。
(もちろん、負えない重荷を負わせるようなことはしなかった)
でも、ともに、神様に向かって祈ってくれる友として、
I先輩が私を尊んでくださったことは確かだと思う。

その先輩との関係は大学を卒業して30年たつ今も続いている。
東日本大震災では、心配して電話やメールをくれた。
今も私のために祈ってくれている。

自分の弱さや課題を出し合い、祈り合うことが
神様にあるI先輩とのつながりを作っていったのだと思う。

二人の祈りは神様に期待する。そして、一緒に祈る相手を尊ぶことが大切。
その祈りを神様は喜んで下さるのだと思う。

2012年3月10日土曜日

私には、乏しいこと…ばかり(詩篇23篇1節)


主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(詩篇23篇1節)

「神様、私は、この御言葉がアーメンといえません。
『主は私の羊飼い』ということは認めます。
でも、私には、乏しいと思えることが、生活の中でたくさんあるのです。」

そう祈り始めてからずいぶんたつ。
私は、普通の人とと比べると、アンバランスな人間だ。
人と比べて、できないこともたくさんある。
失敗も多い。
社会生活を送る中で、自分の意に反してうまいくいかないことがあまりに多い。
だから、「私には乏しいこと…ばかり」と思ってしまうのだ。

つい最近まで、仕事上の失敗の処理についてずいぶん悩んでいた。
ようやく、解決のめどがついて、ふと思ったことがある。

結局、神様に祈って、解決に向けて歩み出したとき、
その問題は解けていた。

でも、
私は、問題が起こると、その問題を自分で抱え込んでしまう。
問題から目をそらし、先送りする傾向がある。
だから、自分で解決を難しくしていただけではないか。

問題がおこったとき、すぐに、神様の胸に飛び込んで。
イエス様助けて下さいと叫び、イエス様に頼っていくのが
羊の姿。

羊になりきっていくとき、
イエス様は解決を与えて下さい。
必要なものを与えて下さる。

自分で自分の問題をなんともできないと思っていたら
失敗のゆげが立っているそのときに、
羊飼いなるイエス様のもとにいくしかない。

私は自分は乏しいといいながら、自分でなんとかしようとしていた。
私は傲慢だったのだ。

自分の乏しさを心から認め、羊になりきっていく。
羊飼いなるイエス様に祈り、頼っていく。
そのとき、
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23篇1節)
が私の御言葉になる。私はそう信じた。

2012年2月18日土曜日

イエス様の愛の中にとどまる(ヨハネ15章9節)


わたしの愛の中にとどまりなさい。(ヨハネ15章9節)


イエス様は、「わたしの愛の中にとどまりなさい」
とおっしゃる。

イエス様は、わたしたちをイエス様の愛の中においてくださる。
だから、わたしたちは、とどまり続ければよい。
イエス様の愛の中にいれよい。

ところが、イエス様の愛の中から飛び出してしまう
というのが私の姿。私たちの姿だ。

イエス様の愛から飛び出してしまう理由は二つある。

一つ目は、何かがイエス様よりも麗しく見えてしまうこと
異性、仕事、地位、称賛、金、物、人、食べ物、酒、薬物…
それらを求めて、自分からイエス様の愛を飛び出す。
イエス様の恵みの世界を自ら拒否する。

二つ目は、人(自分)を裁くこと
許された者、イエス様の愛の中に置かれた者が
人(自分)の罪、欠点が許せない。
裁くことで、自分からイエス様の愛を飛び出す。
イエス様の許しを自ら拒否する。

私は、私たちは、いつのまにか、簡単に、あっという間に
イエス様の愛から、離れてしまう。


それでも、イエス様は、
「わたしの愛の中にとどまりなさい」
と語って下さる。


だから、
イエス様、罪人のわたしをお救い下さい。
わたしは、自分でイエス様の愛の中から出て行ってしまうのです。
今、イエス様の十字架を見上げます。
どうか救って下さい。
そう祈ることができる。

気がついたら、イエス様の愛に取り囲まれていた。
それが、悔い改め。







2012年2月12日日曜日

ダビデの悔い改め②(Ⅰサムエル12章15節~23節)


ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、【主】が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。(Ⅰサムエル12章22節~23節)


この箇所で、私は、学生時代、ダビデのすばらしい信仰の姿について学んだ。

第一は、「ダビデは、自らの罪の結果をそのまま受け取った」ということ。
悔い改めによって罪は許された。けれども、その罪の結果を突きつけられたとき、ダビデは、神様が為されたことは当然のこと受け止めた。神様の前に心からへりくだっている姿だ。

第二は、「ダビデは、神様のあわれみを信じて幼子のように祈った」ということ。
ダビデは、「罪の結果」であるで「子どもの死」をとどめていただくように祈った。断食もした。ダビデは、狂ったように神様に祈った。それは、神様を心から信じているからできることだ。

第三は、「ダビデは、自分の祈りが聞かれないという事実を率直に受け取った」ということ。
子どもの死を知ったとき、すぐに立ち上がるダビデの姿はさわやかだった。神様のあわれみを最後まで願ったが、聞かれなかったときはその事実を率直に受けとった。神様を心から信頼しているからこそできることだ。


ダビデの信仰の姿は、悔い改めた者が、その後、どのように歩めばよいかを教えて下さっている。
罪を告白し、幼子のように祈り、神様がなさることををそのまま受け取る。
その根底には、神様への心からの信頼がある。


私たちは、失敗をした後の対応で、失敗をしたことより大きな失敗をする。
それだけに、ダビデの悔い改め①②のダビデの姿は、私たちの模範だ。

大学を卒業してから、たくさんの失敗をしてきた私は、以前よりも深く思わされている。









2012年2月11日土曜日

ダビデの悔い改め①(Ⅱサムエル12章13節)


ダビデはナタンに言った。「私は【主】に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「【主】もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。(Ⅱサムエル12章13節)


20年近く前になるが、私は、ある一つの罪を犯した。
このとき、神様から明確な示しを受けた。
あなたのしたことは御心ではないと。

そこで、私は、牧師先生のもとに、駆け込んだ。
自分がしたことを牧師先生に話した。
そして、2人で祈ることになった。

私は、神様に「悔い改めさせて下さい…」
と祈った。
すると、牧師先生が祈りを止めてこうおっしゃった。

悔い改めるように祈るんじゃないんだよ。
悔い改めるんだよ。

そこで、私は祈った。
「神様、私は神様に罪を犯しました。」
すると、私の心に、
「主もあなたの罪を許す」
という言葉がとびこんできた。

ダビデも、自分の罪を告白したそのとき、神様から許しをいただいた。

イエス様は、私たちを罪の許そうとして待っていて下さる。
罪の告白することと、許しをいただくことは、同時の出来事であった。



2012年2月5日日曜日

私をきよめてください。(ヨハネ2章12節~22節)~イエスの宮きよめ


ヨハネ2章12節~22節は、イエス様の宮きよめの記事である。


柔和でおだやかな姿のイエス様が、この箇所では、

なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。(2章15~16節)

怒りに燃え切った姿になる。
このイエス様の姿をどう受け取ったらよいのか。
いろいろな説があるのだと思う。

私は、丹羽鋹之先生講解の中の「祈りの言葉」が強く心にひびいている。
まだ、本にはなっていないので、私の手元にある原稿から抜粋する。

「私の中に不純なものが入り込んでいるならば、どうかあなたがご覧下さい。そしていっさい隅々まで点検して、不純なものわが内に入り込んでいればこれを叩き出して下さい。あなたの御血潮をもって今日も隅々まで潔めて下さい。」

丹羽先生は、エルサレムの神殿の有様と、、「いつの間にか自分の欲が自分の自我が入り込んで、それを遂行する場所」になっている私たち自身の有様は同じだという。

そして、「宮をきよめたように、イエス様、私という神の宮をきよめてください。」それが私たちの祈りだと語っておられるのだ。

最初のこのメッセージを聞いたとき、私は衝撃を受けた。エルサレムの神殿の有様と自分の有様が同じだとは思っていなかったからだ。

でも、クリスチャンとして歩めば歩むほど、
丹羽先生の祈りは私の心にひびいてくる。

「なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし…」
のイエス様が私にはなくてはならない存在なのだ。
と思えてくる。





2012年2月4日土曜日

「罪を犯してはなりません」と語られたイエス様(ヨハネ8章11節)


「今からは決して罪を犯してはなりません。」ヨハネ8章11節


姦淫の女の記事で、ただ一人姦淫の女を裁くことのできるイエス様は、
「わたしもあなたを罪に定めない。」
とおっしゃった。
「イエス様は女のこの罪に対してなんと寛容か」と感じる人もいるかもしれない。

しかし、私は、イエス様はなんて厳しいお方なのかと思い、この御言葉について黙想した。
イエス様は続けて、
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
とおっしゃっているからだ。

この女に、
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
はとても厳しい言葉だ。

この女は、これまで、罪の中に生きてきた。
せっかく罪に定められなかったのに、再び罪の中に陥る可能性は十分にある。
この後、姦淫という罪の鎖から、自らを解放させることができるのか。
イエス様の言葉に、女は困りはてはしなかったのか。

イエス様は、私たちが罪を犯すことで、自分で自分を不幸の中に入り込んでいくことを
よくご存じだった。罪の悲惨さ、悲しさをよくご存じだった。
だから、イエス様は、深いあわれみをもって
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
と語られたのだと思う。

それにしても、イエス様の言葉通りに生きるのは難しい。


黙想の中で、
イエス様の言葉、イエス様の愛とあわれみを本当に受け取ったこの婦人は、
この後、イエス様にしがみついて生きていったのではないか。
と思うようになった。

「私は罪を犯す者です。」

「犯したくなくても犯してしまうのです。」

「どうかあわれんでください。」

と、祈りながら、イエス様から離れないで、しがみついて、生きていったのではないか。

そうやって生きていくとき、イエス様の命がこの婦人を生かしてくださった。
イエス様が罪から解放してくださった。イエスの言葉がなっていった。

イエス様の2つの言葉、
「わたしもあなたを罪に定めない。」
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
は、ともに、

「私の十字架の愛を受け取って歩みなさい」

という愛の言葉だったのだ。














2012年1月22日日曜日

すべての道で主を認めるとは (箴言3章6節)

すべての道で主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。
(箴言3章6節 口語訳)

ここでいう「すべての道」は、文字通り、人がその人生の中で歩むすべての道ということである。 しかし、その人の家庭生活、仕事、趣味、その他すべての道で、本当に主を認めることができるだろうか。

そのように問うているうちに、
「そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」
という言葉が目にとまった。

私がいかに道を踏み外すものであるかか、ということがせまっきた。

自分の悟りにたよってしまう。
何かができれば、自分は何者であるかのように思ってしまう。
何かができなければ、自分はだめな者だと自分を責める。
人と関われば人を裁く。
欲にとらわれ、もっと、もっとと思う。
自分の弱さが、自分の邪魔をする。
自分の罪によって自分が苦しむ。

私は、一歩歩めば、一歩踏み外す。また、一歩歩めばまた一歩踏み外す。
大丈夫だと思っていると、いつのまにか外れている。踏み外している。

すべての道で自分の罪と向かいあう。
そして、その場所で、イエス様の十字架を見上げる。イエス様の愛を受けていく。
だから、すべての道で主を認める者とされる。

「すべての道で主を認めよ」とは、

「すべての道で自分の罪を認めよ」と同じ意味。つまり、

「すべての道で十字架をの許しを受けよ」

「すべての道でイエス様の愛を認めよ」と同じ意味なのだ。

それ以外に、「自分の道がまっすぐにされる」方法はない。
すべての道で主を認める者へ導かれたい。






2012年1月14日土曜日

人生の最後でモーセは自分の働きをどのように受け止めていたのか (申命記3章18節~29節)


申命記3章において、モーセはいよいよ約束の地を前にする。そこで、モーセはヨルダン川を渡り、約束の地に入らせて下さいと神様に祈るがこの祈りは聞かれない。そして、モーセは約束の地を目の前にして天に召される。このときのモーセはどんな心境だったのだろう。人生の最後にモーセは自分の働きをどのように受け止めていたのだろう。

丹羽鋹之先生は、この箇所で、次のようにいっている。

「40年イスラエルの民を導いた。あんなひどい民をここまで導いた。あんな苦労があった。こんなこともあった。」という思いはモーセの中になかった。
イエスが「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」といわれたあの思いであった。
  (久遠のおとずれ第87号P12~14)

最初に私は、丹羽先生の言葉を私は素直に受け取れなかった。
40年も民のために働き、あれだけのことをしてきたモーセに「自分はこんなにがっばったのに」という思いが全くなかったのだろうか。
普通の人、というより私自身のこととして考えられない。自分の人生の終わりに、自分がしてきたことを誇りたくなるのは自然な気持ちではないか。それが全くなかったということがあり得るのか。

しばらくして、いや。あり得るのだ。人にはできないことも神にはできる。このことは、神様がモーセになした業だったのだ。私はそう思うようになった。

律法を与えられたモーセは、「人は、律法では救われないこと」、そして、「人は、やがておいでになるイエス様によって救われること」を示すことが最後の仕事だった。そのことの象徴が「約束の地に入れない」ということだった。だから、モーセは、神様の導きによって、「自分には罪しかない、ただ神様のあわれみがあるだけだ。私の歩みは、ただ神様に導かれただけだった。私を真に救うのはやがて来たるべきお方だ」と事実を受け止めた。そして、最後まで神様の御言葉に従ったのだ。モーセの中に自分の功績に対する誇りはなかった。「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白する心境だった。

「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白することは全く神の業なのだ。
これは、人生の終わりの問題ではない。日々、自分を誇りたがったり、誇れない自分を悲しんだりしている私自身を神様に差し出し、日々、「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白するように導かれること。そこに、神様の豊かな恵みとあわれみがある。そこに、信仰によっていただく神の業があらわれる。

モーセのように、人生の最後に、誇りではなく、感謝を持って自分の歩みをふりかえることができる者になりたい。






2012年1月8日日曜日

17歳のヨセフは未熟だっかのか 創世記37章

創世記37章に17歳のヨセフが登場する。

あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げる。
すると兄たちはヨセフを憎むようになる。

兄たちが、ヨセフの前におじぎをする、つまり、ヨセフが兄たちの上に立つという夢だったからだ。
さらにヨセフは、みながヨセフを伏し拝むと受け取れる夢を兄弟たちに知らせる。
これがもとでヨセフは、殺されかかってしまう。ここからヨセフの苦難が始まる。

この記事のヨセフについて2つの見方がある。

一つは、ヨセフは未熟だったというもの。
ヨセフは、父ヤコブに溺愛され兄たちに嫉妬されていた。それにも関わらず、自分のみた夢をそのまま伝えてしまった。兄たちの怒りを買うのは当然であろう。若いヨセフは兄たちに、人に配慮することのできない高慢である、未熟者であったというのだ。
この見方をする先生は、ヨセフは多くの苦難の中で人に配慮できるのものに成熟していくという。

もう一つの見方は、ヨセフの信仰はすばらしいというもの。
ヨセフは、自分の夢をそのまま兄に伝えた。
神様からのメッセージに自分の思いや考えを加えたり、人への配慮をで曲げたりせず
そのまま受け取る、そのまま伝える。これが、信仰者の姿であるというのだ。
この見方をする先生は、ヨセフは最初から最後まで信仰の生涯であったという。

全く正反対の見方。どちらをとるかは、その人の信仰によると思う。

私は後者の見方をとる。
神様からのメッセージを人に配慮して変えてしまうことは不信仰であると思う。

その証拠として、その後、ヨセフは牢屋の中で献酌官と調理官長の夢の解釈をするが、調理官長の死をそのまま伝えている。苦難のただ中のヨセフは、17歳のヨセフと変わらず率直。神様からのメッセージを人に配慮して曲げてはいない。
エジプトの飢饉を伝える夢の解釈でもヨセフはエジプトの危機を率直に語っている。そのことからヨセフはエジプトの宰相に任命される。


ヨセフは神さまとともに歩み続けた。神さまの言葉を人におもねる(人に恨まれることをおそれる)ことなく率直に語りながら。17歳という若者のときから、エジプトでその生涯を閉じるまで。

その歩みは私たちの模範であると思う。








2012年1月2日月曜日

偽善者とはだれか(ルカ12章56節)

「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」ルカ12章56節

この偽善者とはだれのことだろう。
12章54節には、「群衆にもこう言われた。」
とある。だから、群衆に向かって語られたことが分かる。

群衆は、びっくりしただろう。突然自分にふられたのだから。
そして、突然偽善者呼ばわりされ、
どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。(56節)
また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。(57節)
とまで言われたのだから。

群衆は、すでにイエス様の光に照らされていた。
自分が罪人であり、救われなければ滅びていくしかないことを
うすうす感じていた。

でも、そんな自分の真実の姿を見つめようとしない。
イエス様のもとに自分を投げ出し、委ねることはできない。
自分の心のかわきに正直になれない。
本当は救いがほしいのに。
何かを分かっているふりをしている。
自分は正しい判断をしているふりをしている。
「自分は優れた者であると思いたい。見られたい」
そして、自分を「群衆」という位置に置いている。
自分を偽っている。
そんな、群衆にイエス様は、偽善者と呼びかけられた。

自分に正直になれ。
自分の本当の姿をみつめよ。
裸になって、ありのままの姿で
私に頼れ。
あなたは、いくら自分を偽っていても、
最後には裁かれるものになるのだから。
今は、恵みのとき、救いの時だよ。
正しい判断、それは、私によって救いを得ることだよ。

これは、イエス様の愛のメッセージだった。

私は、群衆の中に私自身がいることを発見する。
イエス様は、群衆の中、偽善者の中に紛れ込んでいる私に、
愛をもって語られているのだ。