2012年1月22日日曜日

すべての道で主を認めるとは (箴言3章6節)

すべての道で主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。
(箴言3章6節 口語訳)

ここでいう「すべての道」は、文字通り、人がその人生の中で歩むすべての道ということである。 しかし、その人の家庭生活、仕事、趣味、その他すべての道で、本当に主を認めることができるだろうか。

そのように問うているうちに、
「そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる」
という言葉が目にとまった。

私がいかに道を踏み外すものであるかか、ということがせまっきた。

自分の悟りにたよってしまう。
何かができれば、自分は何者であるかのように思ってしまう。
何かができなければ、自分はだめな者だと自分を責める。
人と関われば人を裁く。
欲にとらわれ、もっと、もっとと思う。
自分の弱さが、自分の邪魔をする。
自分の罪によって自分が苦しむ。

私は、一歩歩めば、一歩踏み外す。また、一歩歩めばまた一歩踏み外す。
大丈夫だと思っていると、いつのまにか外れている。踏み外している。

すべての道で自分の罪と向かいあう。
そして、その場所で、イエス様の十字架を見上げる。イエス様の愛を受けていく。
だから、すべての道で主を認める者とされる。

「すべての道で主を認めよ」とは、

「すべての道で自分の罪を認めよ」と同じ意味。つまり、

「すべての道で十字架をの許しを受けよ」

「すべての道でイエス様の愛を認めよ」と同じ意味なのだ。

それ以外に、「自分の道がまっすぐにされる」方法はない。
すべての道で主を認める者へ導かれたい。






2012年1月14日土曜日

人生の最後でモーセは自分の働きをどのように受け止めていたのか (申命記3章18節~29節)


申命記3章において、モーセはいよいよ約束の地を前にする。そこで、モーセはヨルダン川を渡り、約束の地に入らせて下さいと神様に祈るがこの祈りは聞かれない。そして、モーセは約束の地を目の前にして天に召される。このときのモーセはどんな心境だったのだろう。人生の最後にモーセは自分の働きをどのように受け止めていたのだろう。

丹羽鋹之先生は、この箇所で、次のようにいっている。

「40年イスラエルの民を導いた。あんなひどい民をここまで導いた。あんな苦労があった。こんなこともあった。」という思いはモーセの中になかった。
イエスが「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」といわれたあの思いであった。
  (久遠のおとずれ第87号P12~14)

最初に私は、丹羽先生の言葉を私は素直に受け取れなかった。
40年も民のために働き、あれだけのことをしてきたモーセに「自分はこんなにがっばったのに」という思いが全くなかったのだろうか。
普通の人、というより私自身のこととして考えられない。自分の人生の終わりに、自分がしてきたことを誇りたくなるのは自然な気持ちではないか。それが全くなかったということがあり得るのか。

しばらくして、いや。あり得るのだ。人にはできないことも神にはできる。このことは、神様がモーセになした業だったのだ。私はそう思うようになった。

律法を与えられたモーセは、「人は、律法では救われないこと」、そして、「人は、やがておいでになるイエス様によって救われること」を示すことが最後の仕事だった。そのことの象徴が「約束の地に入れない」ということだった。だから、モーセは、神様の導きによって、「自分には罪しかない、ただ神様のあわれみがあるだけだ。私の歩みは、ただ神様に導かれただけだった。私を真に救うのはやがて来たるべきお方だ」と事実を受け止めた。そして、最後まで神様の御言葉に従ったのだ。モーセの中に自分の功績に対する誇りはなかった。「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白する心境だった。

「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白することは全く神の業なのだ。
これは、人生の終わりの問題ではない。日々、自分を誇りたがったり、誇れない自分を悲しんだりしている私自身を神様に差し出し、日々、「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白するように導かれること。そこに、神様の豊かな恵みとあわれみがある。そこに、信仰によっていただく神の業があらわれる。

モーセのように、人生の最後に、誇りではなく、感謝を持って自分の歩みをふりかえることができる者になりたい。






2012年1月8日日曜日

17歳のヨセフは未熟だっかのか 創世記37章

創世記37章に17歳のヨセフが登場する。

あるとき、ヨセフは夢を見て、それを兄たちに告げる。
すると兄たちはヨセフを憎むようになる。

兄たちが、ヨセフの前におじぎをする、つまり、ヨセフが兄たちの上に立つという夢だったからだ。
さらにヨセフは、みながヨセフを伏し拝むと受け取れる夢を兄弟たちに知らせる。
これがもとでヨセフは、殺されかかってしまう。ここからヨセフの苦難が始まる。

この記事のヨセフについて2つの見方がある。

一つは、ヨセフは未熟だったというもの。
ヨセフは、父ヤコブに溺愛され兄たちに嫉妬されていた。それにも関わらず、自分のみた夢をそのまま伝えてしまった。兄たちの怒りを買うのは当然であろう。若いヨセフは兄たちに、人に配慮することのできない高慢である、未熟者であったというのだ。
この見方をする先生は、ヨセフは多くの苦難の中で人に配慮できるのものに成熟していくという。

もう一つの見方は、ヨセフの信仰はすばらしいというもの。
ヨセフは、自分の夢をそのまま兄に伝えた。
神様からのメッセージに自分の思いや考えを加えたり、人への配慮をで曲げたりせず
そのまま受け取る、そのまま伝える。これが、信仰者の姿であるというのだ。
この見方をする先生は、ヨセフは最初から最後まで信仰の生涯であったという。

全く正反対の見方。どちらをとるかは、その人の信仰によると思う。

私は後者の見方をとる。
神様からのメッセージを人に配慮して変えてしまうことは不信仰であると思う。

その証拠として、その後、ヨセフは牢屋の中で献酌官と調理官長の夢の解釈をするが、調理官長の死をそのまま伝えている。苦難のただ中のヨセフは、17歳のヨセフと変わらず率直。神様からのメッセージを人に配慮して曲げてはいない。
エジプトの飢饉を伝える夢の解釈でもヨセフはエジプトの危機を率直に語っている。そのことからヨセフはエジプトの宰相に任命される。


ヨセフは神さまとともに歩み続けた。神さまの言葉を人におもねる(人に恨まれることをおそれる)ことなく率直に語りながら。17歳という若者のときから、エジプトでその生涯を閉じるまで。

その歩みは私たちの模範であると思う。








2012年1月2日月曜日

偽善者とはだれか(ルカ12章56節)

「偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。」ルカ12章56節

この偽善者とはだれのことだろう。
12章54節には、「群衆にもこう言われた。」
とある。だから、群衆に向かって語られたことが分かる。

群衆は、びっくりしただろう。突然自分にふられたのだから。
そして、突然偽善者呼ばわりされ、
どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。(56節)
また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。(57節)
とまで言われたのだから。

群衆は、すでにイエス様の光に照らされていた。
自分が罪人であり、救われなければ滅びていくしかないことを
うすうす感じていた。

でも、そんな自分の真実の姿を見つめようとしない。
イエス様のもとに自分を投げ出し、委ねることはできない。
自分の心のかわきに正直になれない。
本当は救いがほしいのに。
何かを分かっているふりをしている。
自分は正しい判断をしているふりをしている。
「自分は優れた者であると思いたい。見られたい」
そして、自分を「群衆」という位置に置いている。
自分を偽っている。
そんな、群衆にイエス様は、偽善者と呼びかけられた。

自分に正直になれ。
自分の本当の姿をみつめよ。
裸になって、ありのままの姿で
私に頼れ。
あなたは、いくら自分を偽っていても、
最後には裁かれるものになるのだから。
今は、恵みのとき、救いの時だよ。
正しい判断、それは、私によって救いを得ることだよ。

これは、イエス様の愛のメッセージだった。

私は、群衆の中に私自身がいることを発見する。
イエス様は、群衆の中、偽善者の中に紛れ込んでいる私に、
愛をもって語られているのだ。