2012年2月18日土曜日

イエス様の愛の中にとどまる(ヨハネ15章9節)


わたしの愛の中にとどまりなさい。(ヨハネ15章9節)


イエス様は、「わたしの愛の中にとどまりなさい」
とおっしゃる。

イエス様は、わたしたちをイエス様の愛の中においてくださる。
だから、わたしたちは、とどまり続ければよい。
イエス様の愛の中にいれよい。

ところが、イエス様の愛の中から飛び出してしまう
というのが私の姿。私たちの姿だ。

イエス様の愛から飛び出してしまう理由は二つある。

一つ目は、何かがイエス様よりも麗しく見えてしまうこと
異性、仕事、地位、称賛、金、物、人、食べ物、酒、薬物…
それらを求めて、自分からイエス様の愛を飛び出す。
イエス様の恵みの世界を自ら拒否する。

二つ目は、人(自分)を裁くこと
許された者、イエス様の愛の中に置かれた者が
人(自分)の罪、欠点が許せない。
裁くことで、自分からイエス様の愛を飛び出す。
イエス様の許しを自ら拒否する。

私は、私たちは、いつのまにか、簡単に、あっという間に
イエス様の愛から、離れてしまう。


それでも、イエス様は、
「わたしの愛の中にとどまりなさい」
と語って下さる。


だから、
イエス様、罪人のわたしをお救い下さい。
わたしは、自分でイエス様の愛の中から出て行ってしまうのです。
今、イエス様の十字架を見上げます。
どうか救って下さい。
そう祈ることができる。

気がついたら、イエス様の愛に取り囲まれていた。
それが、悔い改め。







2012年2月12日日曜日

ダビデの悔い改め②(Ⅰサムエル12章15節~23節)


ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、【主】が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。(Ⅰサムエル12章22節~23節)


この箇所で、私は、学生時代、ダビデのすばらしい信仰の姿について学んだ。

第一は、「ダビデは、自らの罪の結果をそのまま受け取った」ということ。
悔い改めによって罪は許された。けれども、その罪の結果を突きつけられたとき、ダビデは、神様が為されたことは当然のこと受け止めた。神様の前に心からへりくだっている姿だ。

第二は、「ダビデは、神様のあわれみを信じて幼子のように祈った」ということ。
ダビデは、「罪の結果」であるで「子どもの死」をとどめていただくように祈った。断食もした。ダビデは、狂ったように神様に祈った。それは、神様を心から信じているからできることだ。

第三は、「ダビデは、自分の祈りが聞かれないという事実を率直に受け取った」ということ。
子どもの死を知ったとき、すぐに立ち上がるダビデの姿はさわやかだった。神様のあわれみを最後まで願ったが、聞かれなかったときはその事実を率直に受けとった。神様を心から信頼しているからこそできることだ。


ダビデの信仰の姿は、悔い改めた者が、その後、どのように歩めばよいかを教えて下さっている。
罪を告白し、幼子のように祈り、神様がなさることををそのまま受け取る。
その根底には、神様への心からの信頼がある。


私たちは、失敗をした後の対応で、失敗をしたことより大きな失敗をする。
それだけに、ダビデの悔い改め①②のダビデの姿は、私たちの模範だ。

大学を卒業してから、たくさんの失敗をしてきた私は、以前よりも深く思わされている。









2012年2月11日土曜日

ダビデの悔い改め①(Ⅱサムエル12章13節)


ダビデはナタンに言った。「私は【主】に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「【主】もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。(Ⅱサムエル12章13節)


20年近く前になるが、私は、ある一つの罪を犯した。
このとき、神様から明確な示しを受けた。
あなたのしたことは御心ではないと。

そこで、私は、牧師先生のもとに、駆け込んだ。
自分がしたことを牧師先生に話した。
そして、2人で祈ることになった。

私は、神様に「悔い改めさせて下さい…」
と祈った。
すると、牧師先生が祈りを止めてこうおっしゃった。

悔い改めるように祈るんじゃないんだよ。
悔い改めるんだよ。

そこで、私は祈った。
「神様、私は神様に罪を犯しました。」
すると、私の心に、
「主もあなたの罪を許す」
という言葉がとびこんできた。

ダビデも、自分の罪を告白したそのとき、神様から許しをいただいた。

イエス様は、私たちを罪の許そうとして待っていて下さる。
罪の告白することと、許しをいただくことは、同時の出来事であった。



2012年2月5日日曜日

私をきよめてください。(ヨハネ2章12節~22節)~イエスの宮きよめ


ヨハネ2章12節~22節は、イエス様の宮きよめの記事である。


柔和でおだやかな姿のイエス様が、この箇所では、

なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。(2章15~16節)

怒りに燃え切った姿になる。
このイエス様の姿をどう受け取ったらよいのか。
いろいろな説があるのだと思う。

私は、丹羽鋹之先生講解の中の「祈りの言葉」が強く心にひびいている。
まだ、本にはなっていないので、私の手元にある原稿から抜粋する。

「私の中に不純なものが入り込んでいるならば、どうかあなたがご覧下さい。そしていっさい隅々まで点検して、不純なものわが内に入り込んでいればこれを叩き出して下さい。あなたの御血潮をもって今日も隅々まで潔めて下さい。」

丹羽先生は、エルサレムの神殿の有様と、、「いつの間にか自分の欲が自分の自我が入り込んで、それを遂行する場所」になっている私たち自身の有様は同じだという。

そして、「宮をきよめたように、イエス様、私という神の宮をきよめてください。」それが私たちの祈りだと語っておられるのだ。

最初のこのメッセージを聞いたとき、私は衝撃を受けた。エルサレムの神殿の有様と自分の有様が同じだとは思っていなかったからだ。

でも、クリスチャンとして歩めば歩むほど、
丹羽先生の祈りは私の心にひびいてくる。

「なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし…」
のイエス様が私にはなくてはならない存在なのだ。
と思えてくる。





2012年2月4日土曜日

「罪を犯してはなりません」と語られたイエス様(ヨハネ8章11節)


「今からは決して罪を犯してはなりません。」ヨハネ8章11節


姦淫の女の記事で、ただ一人姦淫の女を裁くことのできるイエス様は、
「わたしもあなたを罪に定めない。」
とおっしゃった。
「イエス様は女のこの罪に対してなんと寛容か」と感じる人もいるかもしれない。

しかし、私は、イエス様はなんて厳しいお方なのかと思い、この御言葉について黙想した。
イエス様は続けて、
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
とおっしゃっているからだ。

この女に、
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
はとても厳しい言葉だ。

この女は、これまで、罪の中に生きてきた。
せっかく罪に定められなかったのに、再び罪の中に陥る可能性は十分にある。
この後、姦淫という罪の鎖から、自らを解放させることができるのか。
イエス様の言葉に、女は困りはてはしなかったのか。

イエス様は、私たちが罪を犯すことで、自分で自分を不幸の中に入り込んでいくことを
よくご存じだった。罪の悲惨さ、悲しさをよくご存じだった。
だから、イエス様は、深いあわれみをもって
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
と語られたのだと思う。

それにしても、イエス様の言葉通りに生きるのは難しい。


黙想の中で、
イエス様の言葉、イエス様の愛とあわれみを本当に受け取ったこの婦人は、
この後、イエス様にしがみついて生きていったのではないか。
と思うようになった。

「私は罪を犯す者です。」

「犯したくなくても犯してしまうのです。」

「どうかあわれんでください。」

と、祈りながら、イエス様から離れないで、しがみついて、生きていったのではないか。

そうやって生きていくとき、イエス様の命がこの婦人を生かしてくださった。
イエス様が罪から解放してくださった。イエスの言葉がなっていった。

イエス様の2つの言葉、
「わたしもあなたを罪に定めない。」
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
は、ともに、

「私の十字架の愛を受け取って歩みなさい」

という愛の言葉だったのだ。