2013年4月13日土曜日

信じることが神のわざ  ~信仰と行いの関係について~ ヨハネ6章29節

                                          
 礼拝メッセージ3回目、タイトルは「信じることが神のわざ」聖書はヨハネ6章29節。平成21年7月26日(日)。少しカットしたがメッセージの意図は伝わるように工夫した。信仰と行いの関係についてできるだけ分かりやすくお話しした。小学校の教師として、学校での経験を例話に用いている。
 


  イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6章29節)


1 はじめに 

   今日の聖書の箇所では,彼らは,「神のわざを行うために,わたしたちは何をしたらよいでしょうか」とイエス様に質問しています。神に義とされるために,神からよしとされるために何をしたらよいのか。すると,イエス様は「神に使わされた者を信じることが神のわざである」とお答えになりました。彼らが何をしたらといかと質問した神のわざは複数形です。それに対してイエス様のお答えになった「信じること」という神のわざは単数形。つまり,イエス様は,「神のわざはイエス様を信じることただ一つ」とおっしゃっているのです。ピンときたでしょうか。
   今日は,最初に,「神のわざは信じることだだ一つ」というのはどういうことか。次に,「信仰」と「行い」はどのような関係にあるのかについてお話しします。


2 神のわざは信じることただ一つ。 

(1)「信じる」とは神様の愛を受け取ること
    はじめに,イエス様が語られる信仰について,確認していきたいと思います。キャサリンマーシャルは「信仰の翼の一つは神の力,神の愛を知ること」と言いました。そのとおりなのです。
   イエス様は,私たちを愛してくださりました。私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。そして,イエス様を信じる者が永遠の命を与えられるという道をつくってくださいました。
  「私は命のパンである」「私は道である」イエス様はそう語られます。そのイエス様を信じること,イエス様を私の救い主として心にお迎えすること,それが「信じること」信仰です。
    「行い」によって神様に義と認められるのではない。私たちを愛してくださるイエス様に心から信頼すること,ゆだねていくいこと,そのことでイエス様が与えようとしてくださる「愛」を,「義」を「永遠の命」を受け取ることができるのです。私たちが救われることに対して「行い」は何の役に立ちません。
   イエス様の救いを小さくみてはいけません。滅び行く者が救われる,神の御支配に入れられる。そのことは何とすばらしいことでしょう。私たちを愛してくださるイエス様の愛を心から信じて受け入れるものになりたいと思います。

(2)「信じる」者が体験する力み
   ところが,実際に信じて歩み出すと,イエス様を信じて歩むことがいかに難しいかということがわかります。そのことをイメージするために,学校での水泳指導の話がぴったりだと思ったのでお話したいと思います。
   夏は水泳の季節ですね。小学校の教師をしている私も随分水泳の指導をしました。子どもたちはプールが大好き。でも,泳げるかどうかは別。水を楽しませながらどのようにして泳げる子に育てるか。そこが教師の腕のみせどころです。
  泳げない子に対して,私はよくその子の両手をもってあげました。両手をもってバタ足をしてもらうのです。上手な子はすうっと進んでいきます。体の力がぬけていることがよくわかります。でも,泳げない子は違います。体に力が入ります。特に,腕から肩にかけてはよくもまあというくらいの力が腕に入ります。力が入ると,まず,腕が曲がる。伸ばせない。そうすると頭が上にあがる。足が下に下がる結果として沈んでいく。いくら足をバタバタさせても前に進まない。
  そういう子に,それでも,両手を持って指導します。少しずつバックしながら,その子を前に進ませてあげる,やさしく「大丈夫だよ」「力を抜いてごらん」と声をかけます。すると,やがて,力が抜けていきます。腕が伸ばせるようになります。頭を水につけられるようになります。足のつまさきが伸び,きれいなバタ足ができるようになり,前に進むようになるのです。水泳の場合,次のステップ,ビート板を使った練習に入ります。
  信仰も似たところがあると思います。信仰とは,イエス様を信じてイエス様に自分をゆだねることです。イエス様に両手を引いてもらう。ところが,信じているはずなのに,心は,体は,信仰はがちがちと力が入っている。泳げない子が大きくバタバタ足を動かすように一生懸命前に進もうとする。でも,なかなかうまくいかない。
 この「力が入ってしまう」というのが私たちの姿だと思います。信仰の場合,この「力み」は,「行い」という形で現れていきます。何かをしよう,何かができなくては神様に認められない。人に認められない。両手をもって引っ張ってくれるイエス様にゆだねながら進んでいけばよい私たちがそれ以外のことをしようとしてしまう。それ以外のことで神様に認められようとしてしまうのです。

(3)信じるとは「自分の無力と向かい合うこと」
  自分の力を抜くといってもそう簡単にはいきません。どうしても力んでしまう私の側をみてしまうと途方にくれます。
   どうして,力んでしまうのですか。バタ足ができない人が力む理由は恐怖心です。水が怖いのです。怖いから水に顔がつけられない。だから,先生に握られている手に力が入ります。信仰の力みはどこから生まれてくるのでしょう。それは,「自分の無力と向かい合う」ことの恐怖です。神様の愛と神様の力を知って歩み始めると無限なる神様にふれると,一層自分の無力がみえてきます。自分には何の力がない。でもそのことを認めることは恐怖です。簡単なことではありません。自分の無力を認めたとき自分は生きていけるのだろうか。不安でいっぱいになるのが自然です。
   実際に私たちは無力です。だから,イエス様の愛を受け入れるとき,同時に自分の無力であるという現実を受け入れることができるといえます。いいかえれば,イエス様の心から信じるとき無力である自分と真実に向かい合い,無力である自分を受け入れることができる。そのとき,わたしたちから力みがとれていきのです。キャサリン・マーシャルが,「信仰が飛び立つには自分の無力を知ること」というのは,まさにこのことなのです。
   私たちの手を引いてくださる方はイエス様なのだ。大丈夫なのだ。自分がイエス様の働きをじゃまする力みしかないけれどイエス様におまかせすればいいのだ。それが「信じること」です。信じるものの歩みです。わたしたちがわたしたちの身をゆだねたお方が救い主だから,大丈夫なのです。そうやっていろいろな出来事の中で信仰に導かれ,私たちの力みがなくなっていきます。

(4)「信じる」者の歩み 
  もう15年前のことなのでお話ししてもいいと思うのですが,結婚して1か月たたないぐらいして妻のHがかぜをひいて寝込んでしまいました。引っ越しをしたので,部屋の整理等がんばっていたのですね。職場から帰ってくると,寝ていたHが「実家に帰る」と言うのです。「そうだね,まだ一度も帰ってないし,実家でゆっくり休んでくるのもいいかもしれないね」と声をかけると「そうではない」と言う。どういうことかと聞くと「このまま家にいても寝込んでいて何の役にもたたないから実家に帰る」と言うのです。そのとき,何ていったか正確にはおぼえていないのですが,「それはちょっと違うんじゃない」「結婚は病めるときも健やかなときもこれを愛しというよね」「寝込んでいて何もできないから,『役に立たない』とか『ここにいない方がいい』というのは違うと思う」「そんな風にいうのなら実家に帰らないで一緒にいてほしい」などとお話ししたのではないかと思います。
 「何かしてあげられるから自分に価値がある,愛される。今,何もしてあげられないから自分に価値がない,愛されない。」
 結婚生活ってそうじゃないよね。ということを強調したかったのではないかと思います。まじめでいい奥さんだと思うのですが,「何かしてあげなければ…だめ」という力みがあったのです。わかるような気がします。でも,たとえ何もできなくても,何もしてあげられなくても愛し合えるのが夫婦だ。どんなときにも相手が自分を大切に思ってくれる。それを信じることですね。
 「信じる」者の歩みも同じです。「信じることが神のわざ」 イエス様がわたしたちに語ったくださっています。自分に何かができる,神様に何かしてあげられる。だから自分には価値がある,だからイエス様は私たちを愛してくださるのでしょうか。そうではないのですね。何もできない,自分に価値があるとは到底思えない,そんな私をイエス様は愛してくださったのです。そんなわたしたちのために十字架にかかってくださったのです。私たちに命を与えてくださったのです。Hは自分の無力を感じたとき,自分の存在に意味がないと感じました。そのときに,夫からあなたは大切な存在なのだよと語られたのです。自分の無力を感じたそのときこそがイエス様から「あなたは大切な存在なのだよ」と語られるときです。
  イエス様を「信じる」者は,信じていたはずなのにいつも間にか力みの中に入っていく。だから,イエス様は,「神のわざはたった一つ。イエス様を信じること」と語ってくださいます。私たちがイエス様の愛を信じ受け入れることで自分のわざで自分の価値をアピールしようという思いがなくなっていくのです。自分の無力を認めることができるのです。やはり,神のわざは,イエス様をただ信じることただ一つなのですね。
  「行い」によって,義と認められるのではない。私たちを愛してくださるイエス様に心から信頼すること,ゆだねていくいこと,そのことでイエス様が与えようとしてくださる「愛」を,「義」を「永遠の命」を受け取る。イエス様のおすすめは「信じること」ただ一つ。そのことを確認したいと思います。


3 「信じること」と「行い」の関係

(1)「信じること」の中に含まれる「行い」
  はじめに,「神のわざは信じることだだ一つ」についてお話しました。では,全く「行い」は信仰とは関係ないのでしょうか。「ただ信仰のみ」を強調したルターには随分非難が集まったということです。「信仰のみ」はその通りのことなのですが,誤解を生みやすい教理だと思います。
     「信じること」と「行い」は全く関係ないわけではないのです。それを誤解のないように表現するのはとても難しいことです。
  私は,「『信じること』の中にすっぽりと入ってしまう『行い』がある」ということなのではないかと思っています。そして,そのようなことは少なくても3とおりあると思っています。

(2)「信じること」が生み出す「行い」
   はじめの一つは,「信じること」が「行い」を生み出す。ということです。
   また,学校での出来事を例にします。
   学校では,全校朝の会があります。大体は校長先生がお話をするのですが,校長先生が不在のときは,私が何かお話をしなければなりません。その中で,「はじめの一歩」というお話をしたことがあります。紹介します。
   一年生担任の先生が出張のために給食の時間に指導に入ったことがあります。そのとき,ある女の子が,「野菜が食べられないので残していいですか」と聞いてきたので,「一口だけ食べたら残していいよ」と答えました。しばらくして,みたら,その子が「先生,野菜全部食べました」と伝えに来ました。「あれ!一口でいいよといったのにどうしたの」と聞いたら,「一口食べたらおいしかったので全部食べてしまいました」というのです。
  このことから,「いやだなあ」,「やりたくないなあ」と思うことも,「はじめの一歩」踏み出せば2歩目が出せる。給食を食べた一年生もはじめの一口を食べてみたら二口,三口…結局全部食べてしまった。みなさんも「はじめの一歩」を踏み出してみよう。大体,こんなお話です。
   このお話しをしてから,少ししてからのことです。ある三年生の女の子が廊下ですれ違うときに声をかけてきました。「先生,私,先生のお話のとおり,給食のときに,はじめの一口を食べてみたら野菜を全部食べることができました」というのです。「そう,よかったね」と声をかけたら,とてもうれしそうな顔をしました。
   お話をした先生としたら,こういうときのうれしさは何ともいえないものがあります。もちろん,給食のときに野菜を全部食べられたうれしさがあります。でも,それ以上のうれしさがあります。それは,先生の言葉を聞き流さないで実際にやってみてくれたということです。みなさんも「校長先生のお話」というのを聞いたことがあると思いますが,なるほどと思って実行したというのはまれだと思います。それなのに,この女の子は「はじめの一歩」というお話を聞いて,実際にやってみようと思ったのです。
  つまり,お話しした先生と児童の間の信頼関係を感じたからうれしいのです。この児童は,お話しした先生の言葉を聞き,信じました。まず,信じることなしにやってみるという行為にはいきません。「給食を食べられました」「よかったね」というのは信頼関係が結ばれた2人のやりとりです。だからうれしいのです。このことの後,ときどき廊下ですれ違うときに声をかけ少しの会話をします。小さな心と心のつながりを感じるからです。
   信仰も同じではないかと思うのです。イエス様はたくさんのメッセージを残しています。信じるというのは,それを「やってみよう」とすることです。結果がうまくいったとうまくいかないとかということではありません。できたとかできないとかということではありません。できるかできないかといえばイエス様の語ってくださったことはとてもできないことばかりです。私たちに無力を知らせるだけです。
   わたしたちは結果に目を向けがちです。そうではないのです。語ってくださったイエス様を信じる。信頼する。信頼する人のいう通りにやってみる。その信仰をイエス様は喜んで下るのです。そして,イエス様のあわれみの中で,「できるはずのないことができた」そんな奇跡を体験し,一層イエス様との信頼関係を深める。このときの「できるはずのないことができた」それは信仰から生まれた神のわざ,最初にイエス様が否定した複数形のわざではなく「神を信じること」という単数形のわざです。

(3)「はじめの一歩を踏み出す」ことが「信じること」
   「信じること」に含まれる行いの二つ目は,自分の意志で「行う」ことが「信じること」という場合があるということです。
  これも,学校でのある出来事からイメージしてもらえればと思います。
    小学校の2年生の学級を受け持っていたときのことです。時期は冬。冬になるとなわとびの練習がはじまります。体育館で行える体力向上の学習ですね。ある日,体育の授業があり,みんな体育館にいこうとしたときのことです。ある,女の子が「先生,おなかがいたいから体育を休みます」といってきました。そのときは,「そう,大丈夫?」と聞いて休ませました。ところが,次の体育授業の前になったら,また,「先生おなかがいたいから体育を休みます」というのです。
   そこで,わたしは,学級のみんなを同学年の先生にまかせ,2人で教室に残りました。「今日もおなかがいたいんだね」「はい」「もしかしたら,なわとびが嫌いかな。」「…」その子はうつむいて黙っています。「なわとびが嫌いなことは全然恥ずかしいことでも悪いことでもないよ」「先生小学生の時なわとび得意じゃなかったな」「なわとびきらい?」「…」その子は小さくうなずきました。「では,今日,体育をやるかどうかはまかせるよ」「でね。なわとびが嫌いなときは『嫌いだ』と声に出すとすっきりするよ。いってみてごらん」「…」「遠慮はいらないよ,声に出してごらん」するとその子は,「わたしはなわとびが嫌いだ!!!」大きな声でさけんだのです。びっくりしましたが,「うん,それでいいんだよ」「じゃあ,今日はどうする」と聞くと,「単縄は休んで,長縄はやる」といったので,「うん,じゃそうしよう」「一緒に体育館に行こう」といい,2人で体育館に行きました。
   この方法,同学年の先生には「甘い」といわれたのですが,どう思いますか。結果をお知らせします。その子は,その時間は,自分がいったとおり,長縄だけに参加したのですが,次の体育の時間から,何の問題もなかったようになわとびの学習に参加しました。その後,おなかが痛くなることは一度もありませんでした。
   その子は,なわとびがいやでやりたくなかったのです。でも,その気持ちを表に出すことができませんでした。いい子に多いのですね。「いやだ」という自分の本当の気持ちをお話しするとと,どうなってしまうか不安です。そこで,「なわとびは嫌い」という自分の真実にはふたをしました。「おなかが痛い」ということで,(本当に痛くなるのですが),その場を何とか逃げようとしたのですね。
   クリスチャンにも,同じことはないでしょうか。自分の無力と向き合うことができない。そのとき,そんな自分の真実の姿を心の奥にしまい込んでしまい,自分をみようとしない。そして,なすべき行動がとれなくなる。
    キャシャリン・マーシャルが信仰の翼の二つ目は,「自分の無力を知ること」といいました。前にもお話ししましたが人は自分の無力と向き合うことができないのです。向き合わなくてどうするか,ある人は,力みます。自分の力をふるおうとします。また,ある人は,逃避します。向き合うことをやめようとします。今回お話ししているのは,逃避する場合なのです。
  そんなときは,どうしたらよいのでしょう。なわとびの子の場合,その子のいうとおり,体育を休ませていったらどうなるでしょう。不安は一層増大します。一層逃避は大きくなり,やがて,不登校につながる恐れもあります。逃げている限り解決するのはなかなか難しいのです。
   大切なのは,愛をもって受け入れられること,愛をもって語りかけられることです。そして,自分の真実の姿をみつめ,それを言葉にすることです。その子は,まず,「わたしはなわとびが嫌いだ!!!」と大きな声で叫びました。次に長縄から始めるという選択をしました。自分で選択するのも大切です。すると,不安に支配されることなく,逃避することもなく単縄が嫌いということも克服しました。
   クリスチャンも同じです。逃避がはじまったら,逃避のままで解決するのはなかなか困難です。難しいのは,「信仰は行いではない」という教理がこういった「ひきこもり信仰」を増強させることがあるということです。「何もしないのが信仰だ。だから私は何もしない。」そうやって事態を悪くしていくことがあるのです。そんなときどうすればよいのか。まずは,自分の弱さを告白すること。次に前に,子どもたちにお話ししたとおり「はじめの一歩」を踏み出すことです。
   子どもたちに,「はじめの一歩」の話をしましたが,この話のもとになっているのは,ヒルティの幸福論です。ヒルティは,このように書いています。
 
     勤勉な生活習慣を身につけるために,まず肝心なのは「思い切ってやり始めることである」
    「一度ペンをとって最初の一線をひく」「くわを握って一打ちする」それでもう事柄はずっ
    と容易になっている…                    (ヒルティ,「幸福論」P24)
 

   この世の歩みでも有益な言葉です。小学生に語るなら,「はじめの一歩」を踏み出すということになります。
   この「はじめの一歩」は私にとって信仰の言葉として大事にしてきたことです。私は,昔から,自分のからの中に閉じこもって体が動かなくなることがあるのです。特に,自分の中の弱い部分とかかわるときです。自分の弱さと向かい合うことができない。できるならみたくない。そこで,自分の心の奥底に押し込んでしまう。わたしにはそのようなときがあります。
  そのようなときは,まず,はじめの一歩を踏み出す。これが私の信仰だ。と思って動き出すときがあります。
  まず,妻に自分の現状を話します。言語化するのです。そして,つらいのですが,自分の意志で,ふらふらとしながら,一歩前に出て行きます。すると,ことが動き出します。自分の弱さから目をそむけないこと。それをはじめの一歩を踏み出すことで,光の中にでていく。やみの中にとどまらない。それは自分の信仰だと思っています。このことも一歩さえ踏み出せば光の中に足を踏み出せば必ず道は開けると信じているからです。
  このとき,一歩踏み出すこともも信仰から生まれた神のわざ,最初にイエス様が否定した複数形のわざではなく「神を信じること」という単数形のわざです。私はそのように信じています。すべてを導いてくださる神様の愛と力を信じるからこそ「はじめの一歩」を踏み出すことができるからです。

(4)「神のわざ」と自覚しない「信仰の行い」
  「信じること」の中に含まれる「行い」の三番目に,「神のわざと自覚しない信仰の行い」があります。これは,聖書に書かれているので,そのまま読んでみるとわかります。
  マタイによる福音書25章31節から40節

 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 

  解説はいらないのではないでしょうか。
  イエス様を信じて歩んでいたら気づかないうちに運ばれていた。小さな人に良い行いをしていた。イエス様のことが起こっていたというのです。私は何もしていないつもりだけれども,イエス様がしてくださった。しかも,やったことを自分でも気づかない。いつやったかもわからない。
  それは,イエス様や人に義人と認められるために行うわざとは意味が違う。それは,この箇所から,まったく人の力みが感じられないことでわかります。それは,イエス様との信頼ではじまってイエス様への信頼で終わる。自分の働きではない。イエス様の働きを驚きと感謝をもってみていく。そのことがはっきりとされていくといいですね。


4 おわりに

   最後に,ナーウエンの言葉を紹介して終わりたいと思います。ナーウエンは、「静まりから生まれるもの」の中で,信仰の結果について語っています。信仰によって私たちは,「本当のケアをしてくれる友」になれるというのです。わたしたちはこれまで学んできた信仰の歩みによって,ナーウエンの示す姿になっていけるのではないかと思います。

  本当のケアをしてくれる友とは…わたしたちが絶望し,混乱しているとき,黙ってそばに
  いてくれる人であり,愛する人を失った悲しみと喪失のときに,わたしたちとともにいてく
  れる人です。意味を教えててくれなくても,治せなくても,いやせなくても,意味を教えて
  くれなくても私たちの無力と向き合ってくれる人です。たとえ,現実に何かが起ころうとも
  互いに傍らにとどまり,互いに対して真実をもって向き合う…」
                  (ナーウエン,「静まりから生まれるもの」,PP47-49)


   私たちが愛の人になっていく。それは,「信じること」から生まれた力みのない行いです。これは「信じる」ものに与えられた神のわざです。自分でも良いことをしているとは気づかない行いであり,マタイによる福音書25章で読んだ,「わたしの父に祝福された人たち」の姿と重なります。
  まず,自分自身が神様を信じるものになりたい。何度もずれて,何度も立ち返るという歩みの中で,私を愛してくださるイエス様を受け入れ,自分の無力と向き合っていく者になりたい。そのような者は,人を拒絶することなくその人にとどまり,その人の無力と向き合うものになっていける。このことも信仰をもって受け取っていきたい。そのことで,愛の人となり,神様の証人になれるのです。
  イエスは彼らに答えて言われた。「神がつかわされた者を信じることが,神のわざである」
  ただ,イエス様を信じて歩むものになりたいと願います。

                                       

2013年4月10日水曜日

イエス様と共なる歩み ルカによる福音書24章13節~32節


  前回に続いて、礼拝で語らせていただいたメッセージを掲載する。今回は、平成25年3月24日にお話ししたもの。タイトルは、「イエス様と共なる歩み」 箇所はルカによる福音書24章13節~32節

1 はじめに

(1)1週間早い復活のメッセージ
 今日は少し寒い朝になりました。今日は暦の上では20日が春分の日。4月5日の「清明」までを「春分」というそうで、今は「春分」という期間になります。暦の上ではあたかくても実際の天候はずれるときがありますね。
  教会にも暦があります。今日から30日までは受難週、来週の31日がイースター、イエス様の復活を記念する日となります。
  今日は、イエス様復活の後の記事についてお話しします。友人の牧師に今日のメッセージの原稿を見せたら、「1週間早いんじゃないの」というご指摘を受けて、教会暦があったということに気づきました。でも、すこし、暦とずれていても、神様は、「イエス様と共なる歩み」というテーマを与えてくださいました。神様は自由なお方です。今、私たち一人一人に必要な御言葉を神様が示してくださったのだと思います。

(2)エマオへの道を歩む私

 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中で(24章13節)

  「ちょうどこの日」というのは、24章1節から12節の出来事があった日のことです。イエス様が十字架にかけられてから3日目。女の人たちが墓に行ってみると墓の中にイエス様のからだがない。墓が空っぽになってしまった。つまり、イエス様が復活されたちょうどこの日のことです。女たちはまばゆいばかりの衣をきた人が「イエス様はよみがえられた」と話すのを聞いたのですが、弟子達はその話を信じなかったというちょうどこの日です。

 ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中で
とあります。この弟子は、ペテロをはじめとする使徒ではありません。他の弟子です。2人の弟子はおそらくエマオ出身だったのでしょう。イエス様が十字架につけられたため、自分の郷里であるエマオに帰る途中であったと思われます。
 弟子の一人は、クレオパと言います。もう一人の弟子の名前は最後まで出てきません。そこには、もう一人の弟子はあなたです。というメッセージが込められているようにも思えます。想像してみてください。友人と共にエマオへの道を歩む私の姿を。人生の道を歩む私の姿といってもいいと思います。今日、私たちは、友と共に、エマオへの道を歩む私。人生の道を歩む私を頭の中に思い描きながら御言葉を読んでいきたいと思います。

(3)私の歩みはイエス様と共なる歩み
 
  そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(24章14節~15節)
 
   エマオへの道を歩むクレオパと私。イエス様のことが話題の中心でした。そこに、イエス様が近づいてきて共に道を歩いてくださいました。
  マオへの道、それは、私と友ふたりだけの歩みではありません。イエス様が共に歩いてくださる歩みです。私たちがいろいろな人生の道を歩むときもイエス様は自ら近づいてきて共に歩いてくださります。それは、神様の真実です。私たちの人生は「イエス様と共なる歩み」なのです。

(4)共に歩んでくださるイエス様に気づくために(今日のメッセージの概要)

 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(24章16節)

  イエス様は、私と共に歩んでくださいます。でも、私の方では、イエス様が共に歩んでくださることに気づきません。イエス様が共にいてくださることがわかりません。皆さんはどうでしょうか。イエス様が共に歩んでくださっているとはとても思えない。それも真実だと思います。
 そこで、今日、お話ししたいことは二つあります。一つ目は、共に歩んでくださるイエス様を分からなくする3つの方向です。どうしてイエス様がわからなくなってしまうのか、ということです。二つ目は、共に歩んでくださるイエス様に気づくための3つの方向です。
  今日の聖書の箇所には目が開けイエス様だということが分かるまでの過程が丁寧に示されています。御言葉を読んでいけば、私たちと共に歩んでくださるイエス様に気づく、イエス様が見えるようになるための方向がよく分かると思います。

2 共に歩んでくださるイエス様を分からなくする3つの方向
 それでは、共に歩んでくださるイエス様をわからなくする3つの方向について学んでいきます。

(1)とらわれ
   共に歩んでくださるイエス様を分からなくする方向の1番目は、「とらわれ」ということです。もう一度、16節を読んでみると、   

 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(24章16節)

 さえぎられていてとあります。言語は「クラテオー」捕らえる、支配する、固執する、保持するという意味を表す言葉です。弟子達は、イエス様のことを語り合っていたはずなのに、その議論にとらわれてイエス様の姿に気づかなかったのです。
 信仰の方向はがんばって何かが出来るようになることではありません。「何かにとらわれる」ことから自由にされる方向です。とらわれていなければ共に歩いてくださるイエス様に気づくことが出来るのです。イエス様はここにいるのですから。簡単にイエス様に気づくことが出来るのです。それを邪魔するのが、「とらわれ」。ここから自由になるのは子どもにでも出来る、とても単純で簡単なことです。ところが、罪にとらわれた私たちにはとても難しく感じます。

  昔、私は教会学校で中高生会を担当していたことがあります。後で聞いたのですが、教会学校で私が話したお話が、あるとき、中高生会で学んでいた姉妹(Aさんと呼びます)の心にとても強く響いてきたというのです。それは、「握っているその手を離せ」というタイトルでした。こんな話です。サルがあるガラスの瓶に入っていた飴玉に気づきました。そこでガラスの瓶に手を入れて飴玉を取ろうとしました。ところが、ガラス瓶の口が狭いため飴玉を握りしめた手が抜けなくなってしまいました。いくら力を入れて手を抜こうとしても抜けません。「握っているその手を離してごらん」とのアドバイスを受けるのですが、飴玉がほしいサルは決して手を離そうとしません。とうとう力つきてサルが飴玉を握るのをやめたらすっと手が抜けました。そのとき、ガラスの瓶が反対向きになり、飴玉が落ちてきました。という話です。
  そのAさんは、大学に行って好きな人が出来ます。その人はクリスチャンではありませんでした。その人と共にいるときには、なんともいえないうれしい気持ちになりました。心の高鳴りを感じたそうです。でも、これまであったイエス様にある靜かな心の平安が消えてしまいました。そのとき、サルの話を思い出すのです。その姉妹にとって、飴玉と彼氏が重なりました。Aさんが握っている彼氏。どうしてもその手を離すことが出来なくて苦しみました。でも、ついに、その彼氏と別れ、握っているその手を離したとき、神様はそのAさんにすてきなクリスチャンの夫を与えてくださいました。今は、とても温かいクリスチャンホームを築いています。Aさんは彼氏にとらわれました。でも、握っているその手を離したときイエス様の平安が戻ってきました。共に歩いてくださるイエス様の平安です。
 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(24章16節)
「しかしふたりの目はとらわれていてイエスだとはわからなかった」と読んでもよいと思います。
弟子達は、イエス様の出来事についての議論にとらわれました。Aさんは彼氏にとらわれました。
 私たちも、今、何かにとらわれているでしょうか。握っていて、離せないものがあるでしょうか。それへの固執は、イエス様を見えなくさせてしまいます。握っているその手を離すことは、ただ力んでいる自分の力を抜くことです。もしとらわれがあるのなら力を抜いて楽になりたいと思います。

(2)高ぶり
 共に歩んでくださるイエス様を分からなくする方向の2番目は、「高ぶり」です。17節から読んでいきます。

 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパという方が答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」(24章17節~18節)

 旅人の一人、クレオパは、イエス様に向かって、「あなただけが知らなかったのですか」と問いかけました。「あなただけが」という言葉を使ったのは印象的です。クレオパは、私は知っている。弟子である私たちは知っている。エルサレムにいた人々ならみんなエルサレムで起こったイエス様の出来事を知っている。と思っていたのですね。でも、「あなただけが」知らない。この言葉を、本当は「あなただけは」ご存じであるはずのイエス様に語りかけてしまいました。自分は知っている、自分たちは知っている。そう思っていても、実は自分が分かっていなかったことに気づかないということは多いのではないでしょうか。クレオパに見られるのは、「自分は知っている」という高ぶりです。もし、クレオパがへりくだった心をもっていたら、「あなただけは」などとは言わずに、私が知っていることは○○です。あなたがご存じでしたら教えていただけませんか。と教えを求める態度になったでしょう。
 私たちの人生も、いつの間にか、「自分はわかっている」と自分のことを過大評価しがちです。へりくだった言葉を使いながら、実は、「自分は分からない存在だ。絶えずイエス様に教えていただきたい。」とは思っていないということがあるのです。そのような自分の姿に気づいたら、すぐに神様のところに戻っていきたいと思います。 

(3)自分の立てた計画を捨てられない
 共に歩んでくださるイエス様を分からなくする方向の3つ目は、「自分の計画を捨てられない」ということです。19節から読みます。

 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエス様は見当たらなかった、というのです。」(24章19節~23節)
 
21節に、  
 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。
とあります。立派な望みのように見えますが、クレオパの望みは神様のご計画とは違っていました。クレオパは、イエス様がこの世の中で輝いてくださると思っていました。クレオパの頭の中の計画では、イエス様がこの世の王となり、エルサレムを立て直し、ユダヤの国を取り戻す。ということでした。クレオパはイエス様こそこの国の救い主、助け主になると大きな期待をもっていました。ところが、クレオパの頭の中の計画は、イエス様が十字架に死ぬことで無残にも打ち砕かれました。死んでしまっては、殺されてしまっては、もう王となることは出来ない、エルサレムを立て直すことは出来ない。どれだけ失望したことでしょう。17節に、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。とあるのはそのようなことだったのです。クレオパは、自分の立てた計画を握りしめ、自分の計画の成就しか本当の幸いはないと思っていました。ところが、計画通りにならないばかりか、計画にはない「イエス様のからだが見当たらない」ということが起こったのでこれはどういうことだと議論をしていたのです。
 私たちの人生の歩みの中でも同じですね。私たちは自分の計画を立てます。その成就が一番幸いなことだと思います。しかし、その計画通りにならないともうダメだ、もう終わりだと思ってしまう。それが私たちの姿です。
 でも、クレオパにとって絶望的なイエス様の十字架こそが神様の最高のご計画でした。イエスは、イエス様以外のものにとらわれ、高慢で、自分の計画を捨てられない罪人である私のために
私の身代わりに十字架にかかわってくださいました。イエス様の十字架によって私たちは救われるのです。イエス様の十字架によって命を与えられるのです。
 クレオパは自分の計画通りに行かなかったのに、自分の計画を捨てることが出来ませんでした。自分の計画に固執して、イエス様の十字架のすばらしい意味を知ろうとしませんでした。だからイエス様の姿に気づかなかったのです。イエス様が共に歩んでくださっているのに、イエス様が見えないのです。
 私たちの人生の歩みも同じですね。自分の計画しかないと思ってしまう。自分の計画通りにいかないともうダメだと思ってしまう。そして、神様のご計画を悟ることが出来ない。

K先生から聞いた話ですが、今、病床にあるお母さんのために長野に行っているI姉妹がK先生に、いかに自分が「自分の計画に固執する者」かということを証していたということでした。
 今はなくなりましたが、Iさんは、Iさんのお父さんになんとかして救われてほしいという願いがありました。どうすれば、救われるだろう。こうして、ああして、こんな風にすればきっと救われるに違いない。自分でいろいろな計画を立てました。ところが、自分の計画通りにいかないことが起こってくるというのです。神様は、お父さんが救われるために神様のご計画をもって臨んでおられる。ところが、自分の立てる計画が、お父さんの救いを邪魔してしまうことに気づいたというのです。自分がこーして、あーして。そうでなければお父さんは救われない。それが、神様の救いのわざを邪魔する。どうか、わたしがわざわいになりませんように。お父さんが救われるために、神様のわざがなりますように。そう祈ってきた。そして、最後にお父さんが救われるのですね。
 どうしても自分の計画が捨てられない自分を神様に差し出し祈りながら、最後に共に歩んでくださるイエス様の働きを感謝と涙と驚きをもって見ることが出来た。Iさんの証は、この次に学ぶイエス様の姿を見る大きなヒントを与えてくれたと思います。
 今、Iさんは、今度はお母さんの救いのために、祈りをもって歩み出しています。Iさんのために祈っていきたいと思います。

 
3 共に歩んでくださるイエス様に気づくための3つの方向
 次に、共に歩んででくださるイエス様に気づく、イエス様が見えるための3つの方向について学びます。
(1)愚かな自分であることを認める
 24~25節を読みます。

 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24章24節~26節)

 共に歩んでくださるイエス様に気づく方向の1番目は、「愚かな自分であることを認める」ことです。イエス様は、2人の弟子に、ああ、愚かな人たち  と語りかけます。あなた方は本当に不信仰だ。心が鈍い。本当に馬鹿だなあ。ということです。聞き方によってはかなり酷い言葉です。でも、この御言葉を読んでいく限り、2人の弟子は、イエス様の言葉を受け入れています。それは、この後、「いっしょにお泊まりください。」とイエス様にお願いするということからも分かります。
 ああ、愚かな人たちイエス様が語られるとき、主よその通りです。私は愚かなのです。どうか私をお救いください。その祈りの中で私たちは、私たちとともに歩んでくださるイエス様が私のとなりでにこにこ笑っていてくださることに気づきます。
  ガラテヤ人への手紙3章1節に ああ愚かなガラテヤ人 という御言葉があります。この言葉でパウロはガラテヤ人に向かって「愚かな人」と呼びかけています。私はこの言葉に思い出があります。
  学生時代、聖書研究会の合宿中のことでした。参加していたみんな、とても恵まれ、いきいきとした顔で証をしていました。ところが私一人が暗い顔をしていました。まだ、洗礼を受けて1年目のことです。みんなどうしてそんなにいい証が出来るのだろう。私は、どうして恵まれないのだろう。私の○○が悪いのか、□□が悪いのか。暗い気持ちのまま、M先生のもとにいきました。すると、M先生は、そんな私の話を聞いて厳しいアドバイスをしてくださいました。
「どうしてそんなに自分のことばかりみるのか」
「患者は医者の前にいって、自分のからだのことを話し後は医者の診断に任せるだろう」
「自分は、自分は…というのは。『へそみ信仰』だ。自分のへそばかり見て悩んでる」
ところが、そんなことを言われてもどうしてよいかわかりません。「へそみ信仰の自分はだめなのだ」と悩みは一層深まってしまったのです。
 その春休みのある日、一つのメッセージテープを聴きました。丹羽鋹之先生の「おろかなるガラテヤ人」というメッセージでした。私たちは、霊で始めたものを肉で仕上げてしまう。おろかなのは丹羽おまえ自身だ、私の教会員だ。そう語るメッセージを聞いて、「ああ、私は愚かなんだ」ということがすっと受け入れられました。そのとき、不思議なことに明るさが自分の中にやってきたのです。
 自分の愚かさを認められないときにへそみ信仰がはじまります。でも、イエス様を見上げたとき、イエス様の許しの中で「私は愚かです」と認められる恵があるのです。
 イエス様の御手の中で明るくさせれるよい経験でした。
 神様の前にへりくだる。愚かな人と言われたら、アーメン愚かな私です。イエス様は、私たちをそのように導いてくださいます。そして、共に歩んでくださるイエス様との出会いを与えてくださるのです。

(2)御言葉に聴く
 共に歩んでくださるイエス様に気づく方向の2番目は、「御言葉に聴く」ことです。27節を読みます。

 それから、イエスは、モーセ及びすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ24章27節)

 イエス様は、2人の弟子に、モーセ及びすべての預言者から始めて、聖書全体でイエス様について書いてある事柄を解き明かされました。イエス様がおいでになる前のことが書かれてある旧約聖書には、イエス様のことが預言されています。イエス様の十字架が預言されています。イエス様の十字架がすべての人々をその罪からお救いになることが書かれています。旧約聖書は、これからおいでになるイエス様のことが書かれていると言ってもよいのです。そして、新約聖書は、この世においでになったイエス様のことが書かれています。聖書を読めば、神様のご計画、そしてイエス様のことがわかるのです。
 私たちの人生で、御言葉、聖書の言葉に聴くことは本当に大切です。こうして、皆さんと共に御言葉に聴く、御言葉に学ぶ。すると、御言葉自身が語り始めます。わたしの心に迫ります。そして、共に歩んでくださるイエス様に気づかされるのです。
 礼拝でのメッセージ、個々に御言葉を読む時間、本当に大切にしたいと思います。

(3)イエス様を求める
 共に歩んでくださるイエス様に気づく方向の3番目は、「イエス様を求める」ことです。28節~29節を読みます。

  彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
  (ルカ24章28節~29節)

  いよいよエマオへの旅路も終わりました。そこで、イエス様はまだ先に行きそうなご様子でした。しかし、2人の弟子は、  いっしょにお泊まりください と 無理に願った とあります。
  弟子達は、まだ、この人がイエス様であることに気づいていません。自分の計画は破れた。でも、神様のご計画について聞くことが出来た。まだまだ、むなしい心をもちつつ、2人の弟子は、寂しい心、むなしい心でイエス様を求めたのです。それが、いっしょにお泊まりください と 無理に願った  という行動に表れたのです。
  今もそうです。まだわからないが求める、その者の求めを決してイエス様はむなしくなさりません。求めるものの求めを必ず聴いてくださる。そして、共にとどまってくださる。だから、求めようではありませんか。イエス様、あなたのことがわかりません。どうかイエス様ご自身を現してください。イエス様はこの求めに答えてくださいます。そして、ご自身を与えてくださいます。相手の人に悪いから…などと自分で求めを止めてはいけません。そのまま求めていきましょう。この求めが、弟子達の目が開かれる前提となりました。
  30節~31節を読みます。

 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。(ルカ24章30節~31節)

 目が開かれ というのは、さえぎられて と反対の言葉です。今まで目をさえぎっていたもの、とらわれていたものがスーととられるという状態です、ここに来て、弟子達は、今まで気づかなかったイエス様の姿を見ることが出来たのです。このときの、弟子達の喜びは本当に大きなものだったと想像できますね。


4 おわりに
 今日のメッセージのまとめをします。

(1)私たちは必ず目が開かれる
 私たちの歩みも、目が開かれ  るときが必ず来ます。本当に私の人生をイエス様が共に歩んでくださるのだろうか。不安でしかたがない。という人もいらっしゃるかもしれません。でも、
今日学んできた方向。自分のとらわれから自由になることを願う、高ぶる自分を神様に差し出しへりくだる者にされる、自分の計画を捨てる、そして、自分が愚かなことを認め、御言葉に聞き、イエス様を求める。私の人生の中でその方向を大切にしていくとき、イエス様は必ず私の目を開いてくださる。すでにイエス様は私と共に歩いてくださっているのです。御言葉がそのことを示してくださっているのです。  目が開かれ イエス様が共にいてくださることを実感する喜びを経験したいと思います。

(2)共に歩んで下さるイエス様がおられるだけで大丈夫
 最後に32節を読みましょう。

 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24章32節)

 この二人ははじめから心を燃やす存在に変えられたのではありません。いつの間にか、イエス様が共に歩んでくださり、イエス様に引きつけられ、イエス様を求めずにはおられない存在に変えられていきました。
 もちろん、心が燃えることはすばらしい。共に歩んでくださるイエス様に目が開かれることもすばらしい。でも、なにより大切なことは、「イエス様が私とともに歩んでくださる」そのことです。私が気づいていても、気づいていなくても。心が燃えていても、燃えていなくても。イエス様が共に歩いてくだされば、必ずイエス様が今日学んできた方向に導かれるのです。自分は愚かな者です。自分の計画も当てにはなりません。でも、御言葉は確かです。私とともに歩んでくださるイエス様は確かなお方です。このイエス様が共に歩んでくだされば大丈夫です。
 今の自分の姿にとらわれる必要はありません。イエス様と共なる歩みを歩んでいきましょう。イエス様と共なる人生を生きていきましょう。 

2013年4月7日日曜日

「一匹の蚤」の信仰~ダビデから学ぶ~  Ⅰサムエル24章1節から16節


 私の教会では、信徒訓練の一つとして、平信徒がメッセージをする。私も一年に一回のペースでメッセージをしている。今回は平成23年8月28日にお話したメッセージを掲載する。
 「一匹の蚤」このブログのタイトルは、このメッセージからつけた。
 聖書は、Ⅰサムエル24章1節から16節


1 はじめに  

(1)サウルにねたまれ追われるダビデ
  今日は、サムエル記から、ダビデの信仰を学びたいと思います。
 ダビデの時代は今から3,000年も前にイスラエルの地で羊飼いの子として生まれます。ダビデは、神とともに歩む人でした。竪琴の名手であり、イスラエルの初代王サウルの精神的な病を癒やす役割を与えられます。それも、神様がダビデとともにいて下さり、神様の平安が音楽として表現されたものでありました。
 ダビデの竪琴はサウルの心を癒やしました。サウルはダビデを非常に愛しました。ところが、
2節に、

   サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビ
  デとその部下を捜しに出かけた。

とあります。サウルは、殺すためにダビデを追いかけるようになりました。なぜでしょう。
  サウルが王であった時代、イスラエルを悩ましていたのは、ペリシテ人たちです。ペリシテはサウルが王である時代最後まで強力な敵でした。
  ダビデは、サウル王のもとでペリシテ人と戦います。神とともに歩む人ダビデは、戦いでも優れた力を発揮します。それなら、いいことづくしでなんの問題もないように思えます。イスラエルの人々もダビデの働きをたたえました。ところが、このときの民衆の歌がサウルの心を大きく変えました。Ⅰサムエル記18章7節をお読みします。

   女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打っ
  た。」

  ねたみです。サウルの千に対してダビデは万。王であるサウルよりもダビデの方が称賛されることに対するねたみです。サウルは、王である自分よりもダビデがたたえられることがおもしろくなかったのです。さらに、ダビデがさらに戦いで大きな成果を上げるのを見て、サウルはダビデに恐れを感じるようになります。
   ねたみと恐れにより、サウルはダビデの命を狙うようになりました。2節に、「イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いてダビデとその部下を捜しに出かけた。」とありますが、ダビデ一人に三千人の精鋭を集めなければならないほど、サウルはダビデの恐れていたのだと思います。

(2)サウルを殺すチャンスを捨てたダビデ
 ダビデは、サウルの手からひたすら逃げます。そして、不思議な導きで守られていきます。やがて、ダビデに、サウルを倒すチャンスがおとずれます。それが、今日の御言葉の場所です。3節をお読みします。


   彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用を足すためにその中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、【主】があなたに、『見よ。わたはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。

   ダビデが洞穴に隠れていたとき、ちょうど、サウルもその洞穴のところにやってきました。そのとき、サウルは用をもよおしました。そして、その洞穴の中には入って用を足すそうとしたのです。光の関係で、ダビデからサウルのことはよく見えました。ところが、サウルからは洞穴の奥まで光が届かない、つまり、真っ暗にしか見えませんでした。ダビデの側からすると絶好のチャンス。なんの抵抗もなく、サウルを殺すことが可能となりました。ダビデの部下は今こそサウルを倒すチャンスだといいます。ところが、ダビデは、「サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。」ということしかしないのです。ダビデは部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許しませんでした。
  ダビデには全く非はありませんでした。ところが、そのダビデの命ををねらうサウルです。どう考えても非はサウルにありました。このようなチャンスにサウルがダビデに殺されることがあってもおかしくないと思います。しかし、ダビデは、サウルを殺しませんでした。ダビデはサウルから命を狙われる身です。サウルを倒さないとダビデはいつまでも命を狙われます。それなのに、なぜ、ダビデはこのチャンスにサウルを殺さなかったのでしょうか。それが、今日の大きなテーマです。
  私は、聖書に書かれているダビデの言動から、ダビデがサウルを倒さなかった理由を3つ読み取れると思います。そして、この3つの理由から私たちはダビデの信仰のすばらしさを学ぶことができると思います。ダビデが私たちの信仰の模範となって下さっていることがわかります。今日は、ダビデがサウルを殺すチャンスが与えられたのに、そのチャンスを生かさなかった3つの理由とそこから教えられるダビデの信仰について学びます。


2 ダビデがサウルを倒さなかった理由1「神様が油そそがれた者を尊ぶ」 

 ダビデがサウルを倒さなかった理由の一つは、6節から読み取ることができます。

   「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことを
  して、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。彼は【主】に油そそがれた方だ
  から。」

    「油そそぐ」というのは王や祭司の即位の際、油を頭にかけるという儀式です。サウルは、神様がお選びになり、神様が王として定めました。サウル王は、主によって油注がれ、主によって立てられたイスラエル第1代の王です。ダビデにとっては王との関係はどこまでも主との関係でした。例え今は、神の御旨から離れて、悪例のとりこになっているような存在であっても神様が油を注いで王として立てた者。ダビデにとってサウルに逆らうことは、神様に逆らうことだったのです。サウルに手を下すころは神様に手を下すことであるとダビデには思われたのです。神様を第一とするダビデの姿をここにみることができます。
  これは、神様への深い信頼がなければできないことだと思います。神様が油そそがれたサウルは、神様の御心にそむきました。そして、ダビデをねたみ、ダビデを恐れ、その命を狙いました。どうして、神様はそのようなサウルをそのままにしておくのか。どうして、ダビデが逃げ回らなければならないのか。そもそも、そのようなサウルをどうして神様は選んだのか。今の私たちが考えても理解できないことがたくさんあります。当事者であったダビデにとってはなおさらのことでしょう。立派な人なら、王様としてとしてふさわしい人なら、神様が油そそがれた者として尊敬できます。でも、それとは真反対のものだとしても、しかも理不尽にも自分の命を狙う者だとしても、神様が油そそがれた者は、油そそがれた者です。その理由は、神様の御手の中にあります。だから、敬い、従って行く。手を下すなど絶対にできません。それは、人に対する信頼ではありません。神様に信頼するものとしての判断であり、行動なのです。
  神様がお決めになった秩序に対して従うことは、神様に従うことなのです。それがたとえ理不尽なことであったも人ではない、神様に従って行くという気持ちで人に従って行く。それが神様の御心です。それが、本当に神様を恐れる者、真に神様を神様として崇める者のあるべき姿です。
  だから、6節で、「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。」とダビデはその家来を説得しました。「神様が油そそがれた者を尊ぶ」それが、ダビデがサウルを倒さなかった理由の一つです。私たちは、このダビデの信仰から学びたいと思います。
  ロマ13章1、2節をお読みします。

   人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威は
  すべて、神によって立られたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めに
  そむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

  「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」まさに、ダビデはこの御言葉を実行した人です。
 でも、私たちは、こんなことが本当にできるでしょうか。この世の中には、理不尽なこと、不合理なことがあまりにもたくさんあります。どうして、あの人が上の立場に立っているのか。あの人が上の立場に立っているから、私はこんなにも苦しい思いをしなければならない。というこ
とがあまりにも多いのではないかと思います。
 でも、神様の事実は、大きな流れの中で見て行くと、この御言葉が真実であることを示しています。サウルはやがて戦いに敗れ死んで行きます。そして、ダビデは自分が手を下さなくても王になるのです。その後、ダビデの息子であるアブシャロムは、ダビデ王という権威に従おうとせず、ダビデを殺し、自分が王になろうとします。しかし、アブシャロムは戦いに敗れ死んで行きます。まさに、そむいたアブシャロムは自分の身にさばきを招いたのです。神様の真実は、神様の歴史が確実に証明しているのです。
  御言葉には力があります。私は、自分の歩みの中で、ダビデが、サウルに従うことで神様に従ったということを何度も心の中で反芻したことがあります。「神様がお決めになった、秩序に対して従うことは、神様に従うことなのだ」そこに、神様の真実がある。みこころがある。「人はみな上に立つ権威に従うべきなのだ」。何度も、何度も朝、職場に向かうときの車の中で反芻するのです。もし、この御言葉がなければ、今頃、所属長と大げんかしていたかもしれません。この御言葉で、私自身が守られてきたのではないかと思います。この御言葉で理不尽な、納得できないこの世の中を神様に従うという信仰をもって生き抜く力を御言葉が与えて下さるのです。ダ
ビデも、このとき、神様に従う力を神様によって与えられたからこのような私たちの模範となる
姿をみせることができたのだと思います。
  さて、4節後半から5節をお読みいたします。

   そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、
  ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。

 ダビデは、サウルを倒すことはありませんでしたが、サウルの上着のすそをこっそり切り取りました。ダビデは、そのことに心をいためました。ダビデは、自らが切った上着のすそサウルに見せることによって、自分がサウルを倒す気持ちががないことを証明しようとしました。でも、ダビデは、上着のすそを切ることも失敗であった、罪であった、というのです。
 上着のすそ切り取ることは、私たちから見ると小さなことです。でも、ダビデは、「上着のすそを切るということも王の権威を傷つけることであった」と考えたのだと思います。ダビデにとって、上着のすそを切ることさえも、サウルの王としての尊厳を傷つける事であり、「神様が油そそがれた者を尊ぶ」という自らの信仰に反することだったのです。
 私は、ここにも、ダビデの信仰のすばらしさをみることができると思います。「上着のすそを切る」という小さなことも「神様が油そそがれた者を尊ぶ」ことからから外れた行為であった心を痛め、神様の前にでていき、悔い改めること。神様の前に、小さな罪を罪と感じることのできる感性、それは、本当に神様を主として、心から神様に従うからこそもつことができます。「神様が油そそがれた者を尊ぶ」ダビデのの信仰は私たちの信仰の模範です。 
 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」という御言葉は人間の力では決して行えるものではありません。私も、私自身の歩みをふりかってみるとき、「私の歩みは不完全であった。私は、上に立つ権威に従いきることはできなかった。」と告白せざるをえません。これもまた真実な自分の姿です。それでも、私は、その姿のまま、正直に神様の前に出るしかありません。ありのままで祈る。そして、御言葉によって、行動して行く。そのとき、私たちに神様のことが起こる。そう信じたいと思います。


3 ダビデがサウルを倒さなかった理由2「さばきの一切を主に委ねる」 
 
ダビデがサウルを倒さなかった理由の二つ目を聖書から見て行きます。
 まず、サウロが洞穴から出てきた後のダビデの言動について8節から11節をお読みします。

   その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。
  サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウル
  に言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のうわさ
  を信じられるのですか。実はきょう、いましがた、【主】があのほら穴で私の手にあなたを
  お渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったので
  すが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は【主】に油そそがれた
  方だから』と申しました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧
  下さい。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。そ
  れによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めて下さい。私はあなたに罪
  を犯さなかったのに、あなたは私の命を取ろうとつけねらっておられます。

 ダビデは、サウルが穴から出て行くと自らもサウルの前に姿を現わします。そして、上着のすそを見せ、自らがサウルに対してそむきの罪が一切ないことを訴えます。
 さらに、12節と15節で次のように訴えるのです。

  どうか、【主】が、私とあなたの間をさばき、【主】が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。
  どうか【主】が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救って下さいますように」

 このダビデの言葉の中に、ダビデがサウルを倒さなかった2番目の理由を見ることができます。ダビデは、サウルに必死に訴える中で、「人をさばくことのできるのは主だけだ」ということを語ります。「人をさばくことのできるのは主だけだ。」だから、自分がサウルをさばき、サウルを手にかけることはできない。ダビデには、「さばき」ということに関して、主に対する深い信仰があったということなのです。ダビデは「さばき」をすべて主に委ねていたのです。
 ローマ人への手紙12章1節以下に言われていることをダビデは実行していました。

   だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りない。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

  ダビデのサウルに対する態度はこの御言葉のとおりでした。さばきの神様に一切を委ねています。例え、上に立られた権威であったも、理不尽なことは理不尽なこと、不合理なことは不合理なこと。間違いはどこまでいっても間違いです。でも、これをさばくのは自分ではない。自分の手でさばこうとしたら、当然、ダビデはサウルの首をはねていました。しかし、ダビデはさばきの一切を主に委ねていました。
 ダビデにとって、主は、すべてであったからです。ダビデにとって主が一切の一切だったからです。
 ダビデは、「さばきの一切を主に委ねた」。だから、自分で手を下すということをしなかった。これがダビデがサウルを倒さなかった2つ目の理由です。さらにいえば、自分のさばきもまた主に委ねていました。ダビデが自分の命をねらうサウルの前に飛び出していったのは、自分をさばいてくださる主に一切を委ねていたからでしょう。このダビデの信仰も私たちの模範です。
  しかし、ローマ人への手紙の実行も私には不可能にみえます。「さばき」は神様の領域です。これを私たちが行うことは、私たちが神様の領域に足を踏み入れたことになります。でも、神様の領域に恐れもなく足を踏み入れてしまおうとするのが私たちです。どうしてもさばいてしまう、裁き合ってしまうのが私たちの実体です。自分がさばき主になって自分は正しいと自分を義としようとします。そのような思いから抜け出すことができない。本当のことを言って、この御言葉の前に立ちすくむしかないのが私たちではないでしょうか。
 そのような私には、困難な中にあって、ただ神様に向かうダビデの祈りは、また驚きです。
  詩篇35編 全部読みたいのですが、長いので1節から6節までお読みします。

  【主】よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦って下さい。
  盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がって下さい。
  槍を抜き、私に追い迫る者を封じて下さい。私のたましいに言って下さい。「わたしがあな
  たの救いだ」と。

  神様はダビデのすべての訴えを聞いて下さる方。そう信じるダビデは、自分の真実を神様に訴えます。ダビデの命を狙うものが大勢いる中で、死と直面したどうしようもない困難なまっただ中で、ただ神に向かっています。率直に自分の思いを神様にうったえています。このとき、ダビデは、神様と一つです。わたしの敵は神の敵、だから神様、私の敵に戦うのはあなたです。と言い切っています。
 ダビデは自分を義としているわけではありません。神様の前に何もできない者として空っぽになってただ、神様の前にむなしくなっているからこそ戦いのすべてを神様に委ねているのです。だから、戦うのは神様でありダビデではありません。ダビデはただ、神様に「戦って下さい」「立ち上がって下さい」「封じて下さい」と願うのみです。一切の戦いを神様に委ねることができたのです。
 さらに、24節では、

  あなたの義にしたがって、私を弁護して下さい。わが神、【主】よ。彼らを私のことで喜ば
  せないで下さい。

 「あなたの義にしたがって、私を弁護して下さい。」とあるように、弁護するのもダビデではありません。一切が主のこと。主に委ねることなのです。
 ダビデはただ、すべてを成し遂げて下さる神様を賛美することでした。だから、最後の28節、に、


  私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。

と語っています。
 詩篇35編のように、神様に言い切れる、神様と一つになれる、敵に戦うことも、神様にさばきのすべてを委ねきれる。だから、ダビデは自分の手でサウルを倒しませんでした。サウルに対するさばきは、わたしのすべてである神様にすべて委ねたのです。
 ダビデの祈りを、なかなか自分の祈りとすることができないのははぜでしょうか。それは、私が中途半端な祈りをしているからだと思わされます。「相手にもいいところがあります、自分にもいいところがあります。」そんな祈りもどこか自分の正しさにより頼んでいます。どこかに、自分のさばきが入っています。神様に向かって祈るならまだいいのですが、「あの人はどうしてこんなことをするのだろう。」「あの人は間違っている。」と、ただ、人に向かってつぶやいていく。そんなことをしているから突き抜けられないのです。だから神様の一つになれないのです。
 神様にすべてを申し上げ、戦うことも、さばきも、すべてを神様に委ねていく。このダビデの信仰を私たちの信仰の模範としたいと心から思います。


4 ダビデがサウルを倒さなかった理由3「自分を死んだ犬、一匹の蚤とする信仰をもつ」 
 
ダビデがサウルを倒さなかった理由の3つめは14節にあります。

   イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておらv  れるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

  ダビデは自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」です。と告白しました。 自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」とする信仰をもつこと。これが、ダビデがサウルを倒さなかった理由だと思うのです。
 ある注解書をみたら、「ダビデは、サウルからみれば『死んだ犬』『一匹の蚤』にすぎないとダビデが語った」と書いています。確かに、全然王に逆らわず、手向かいません。されるまま。そしてただ逃げるだけ。だから死んだ犬のようなものです。あるいはひねりつぶされそうになって逃げる一匹の蚤のようなものです。サウル王に対してなんの力もありません。
 私は、それだけではないと思います。ここまで見てきたとおり、この章では、ダビデのサウルの前での、サウルに対する行動が問われていますが、ダビデは神様の前に立ち、神様の前で行動しているからです。ダビデは、ここで神様の前に『死んだ犬』であり『一匹の蚤』である自分を告白しているのです。犬はユダヤにおきましては大変軽蔑されていた生き物でした。それが「死んだ犬」と言いいます。さらに「一匹の蚤」、謙遜のきわみです。
 ダビデは主を仰いだとき、本当に自分には何もないと思っていました。それは、神様に対する全幅の信頼と一つのことです。神様の前に立ち、神様の前の自分を見るとき、自分は「死んだ犬」「一匹の蚤」としか思えません。そして、自分は「死んだ犬」「一匹の蚤」と思うとただただ神様に頼るしかありません。すべてを上げてより頼むしかないと思えてきます。真の信仰はこのような主の前の貧しい姿から現れて行くのです。
 サウル王は、このダビデとは、反対の方向に歩みました。サウル王も最初は心低く神様の前にありました。だから、神様の霊は彼の上にとどまっていました。けれども、サウルは王になって思い上がりに心が占められていきました。そのとき、神様の霊が彼を去り、最初にお話ししたようにダビデの琴によって慰められなければならないほど心が病んでいきました。ダビデを殺そうとしたのも自分よりも称賛されるダビデに自分のプライドが傷つけられたからです。自分は高くありたい、自分は高い存在であるはずだ。その思いを傷つけるダビデの存在が許せなかったのです。
 第1ペテロ5章5節に

   同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。
  神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

 とあります。
 神様は、へりくだる者に恵みをお与えになります。このへりくだりは、サウルのものではありません。自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」とするダビデのものでした。
 私たちは、どちらの方向にあゆんでいるのでしょうか。サウルのような高ぶる方向、自分のプライドを守っていこうとする方向でしょうか。サウルのような、プライドを守ろうとする人に対して、やはり自分のプライドを守ろうとしてぶつかり合うということもあります。自分がいかにいいものであるかを主張しあう、そのような中で大きなトラブルに巻き込まれていくということが現実のわたしたちではないかと思います。
 ダビデは、高ぶる方向ではなく「死んだ犬」「一匹の蚤」として歩みました。だから、サウルとぶつかりませんでした。サウルがダビデを殺そうとして追いかければひたすら逃げました。そのようなダビデだから、サウルを倒すことのできるチャンスがきても、サウルを倒すことはしませんでした。サウルの前に、神様の前に、「死んだ犬」「一匹の蚤」であり続けたのです。へりくだる者であり続けたのです。
 ダビデがサウルの倒さなかった3つめの理由、それは、「自分を死んだ犬、一匹の蚤とする信仰をもつ」ことでした
 私たちにとって慕わしいのは、この心の低さです。へりくだる者になることです。避けたいのは高ぶる心です。でも私たちは高ぶりたい者です。自分のプライドを捨てることのできない者です。そのような私たちにとって、ダビデの姿は模範です。どうか、ダビデの心低さを私にも与えて下さい。自分が神様の前に、「死んだ犬」「一匹の蚤」であることを認める者として下さい。そして、その心低さが、サウルに対するダビデのように、人との関わりの中でもあられていく者として下さい。と心から祈るものです。   


5 終わりに 

  ここまで学んできたことをまとめたいと思います。
 今日は、せっかくダビデに与えられたチャンス、「自分の命をねらうサウル王を倒す」ということを、ダビデが行わなかった理由をみてきました。そして、そこから、ダビデの信仰を学んできました。
 ダビデの家来に、「サウルを殺すチャンスです」といわれたとき、ダビデが家来を説得した理由は、理由1で学びました「神様が油そそがれた者を尊ぶ」ということでした。だから、なぜチャンスを生かさなかったのですかと問われれば、「神様が油そそがれた者を尊ぶこと」で主に従おうとしたからだというのが一番最初に出てくる答えだと思います。
 さらに、ダビデがサウル王に対して自分にはなんの殺意がないことを訴える中で思わず出てきた言葉「【主】が、私とあなたの間をさばき、…」という言葉から、ダビデが「さばきの一切を神様に委ねていたこと」も、自分から手をくださなかった二つ目理由であることをを学びました。神様にすべてを申し上げ、戦うことも、さばきも、すべてを神様に委ねていくことは、ダビデの信仰の基本的な姿勢だったのだと思います。
 私は、この2つの理由を根底から支えるものが、三つめの理由として学びました「自分を死んだ犬、一匹の蚤とする信仰をもつ」であったと思います。ダビデの中にあるのは、自分を無に等しき者としていく実に低いへりくだった心でした。「死んだ犬」「一匹の蚤」です。なんの価値のない存在です。だから、ダビデは、「上に立つ権威に従う」ことができたのです。「さばきを一切主にゆだねる」ことができたのです。
 理由1「神様が油そそがれた者を尊ぶ」、理由2「さばきを一切主にゆだねる」の学びの中で、で、私はなかなかダビデのようにできないとお話ししました。ダビデと私とでは何が違うのでしょう。この心の低さです。自分を義としようとする心、自分の中に正しさがあります。「自分は間違っていない。」「相手に非がある」などという心があるから、上に立つ権威に従うことができません。さばきを一切主にゆだねることができません。「死んだ犬」「一匹の蚤」になりきること、心を低くして主の前に出て行く。これこそがダビデがサウルを倒さなかった一番大きな理由なのです。私たちが一番模範としたい、私たちが一番慕わしい信仰の姿、それは「死んだ犬」「一匹の蚤」になりきることです。それが信仰の模範とも言えるダビデの姿の原点でした。
 最後に、「一匹の蚤」についてもう少し考えたいと思います。「一匹の蚤」は0に近い存在という以上に悪いものではないかと思います。人にとって害になるもの。マイナスの存在です。私は「一匹の蚤」です。と告白するということは、自分は人に害を及ぼす存在なんだ。マイナスの存在なんだ。ということを認めることなのです。
 そうやって主に寄りすがって行く者、それは、蚤だから、マイナスだからイエス様の血をすって行くイエス様の血に寄りすがって行くもの、主の命にすがって行くものではないでしょうか。 「私に必要なのは、ただ、イエス様の十字架の血潮です。」「私はイエス様の血をいただく一匹の蚤です」そう告白して行くものなりたいと思います。

2013年3月3日日曜日

敬虔のための鍛錬とは Ⅰテモテ4:7


むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。Ⅰテモテ4:7




前に「満ち足りる心を伴う敬虔」について書いたところ、necosanpoさんから、

こんなコメントをいただいた。

すでにイエス様の大きな愛に取り囲まれていることに気づく。←そうですね。そこから、何度も遠ざかってしまったりしますが、だんだんと、イエス様に戻る時間が早くなってきたような気がします

このコメントを読んで、「敬虔のための鍛錬」とはこの方向なのだと思った。
鍛錬というと

 ・苦しみ
 ・努力
 ・向上

というイメージがある。しかし、「敬虔のための訓練」はそうではない。


わたしたちは、すぐイエス様から離れてしまう。

・自分で苦しみを抱え込む
・自分で努力しようとする。
・自分で自分を向上させようともがく

そのように、すぐ自分でがんばりだす。
イエス様の愛の中からとびだす。



このように、イエス様の愛から飛び出してしまったとき、
すぐに帰ってくることができるようになる。
これが敬虔のための訓練だ

力みをともなった訓練ではない。
力んだときすぐに力をぬく訓練だ。

・自分で苦しみ続ける私→イエス様のもとに来てイエス様にすべてをぶつける。
・自分で努力しようとする私→イエス様がすべてを為して下さることを信じる。
・40点を50点に向上させようとする私→イエス様に0点をつけていただき、イエス様100%になっていただく。


イエス様の大きな愛にすぐに帰り、
イエス様にすべてを委ね、
あっという間に、その平安の中で憩う私になる。


それが敬虔のための鍛錬だ。
necosanpoさんはその恵みの歩みを歩んでいる。





2013年2月24日日曜日

満ち足りる心を伴う敬虔とは  ~「もっと○○を」からの解放~ テモテへの手紙第一6章6節

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

                             テモテへの手紙第一6章6節



尽日春を尋ねて春を見ず
茫鞋踏み遍うす隴頭の雲
帰来適って梅花の下を過ぐれば
春は枝頭に在って已に十分


宋の詩人・戴益(たいえき)の「春を探る」という詩。ということだ。
私は、この詩を、丹羽鋹之「くおんの窓」P5から知った。

丹羽先生は

わたしがここにいても、どこにあってもどんな状態にあっても主の大愛に取り囲まれているといういことである。

とコメントしている。

満ち足りる心を伴う敬虔

はまさに、この詩の経験を信仰にあってさせていただくことだ。


もっと恵を
もっと平安を
もっと知恵を
もっと信仰を
もっと力を
もっとこの世のものを
もっと地位を
もっと幸せを
もっと…もっと…

わたしたちは、求めて、求めてさまよい歩く。
それは、春をさがして草履をすり減らすばかりの詩人と同じ。
しかし、詩人が自分の家の梅の花をみて、自分が春に取り囲まれていることに気づいたように

わたしたちも、すでにイエス様の大きな愛に取り囲まれていることに気づく。
もう何もいらない
すでに十分、私はすでに満たされているのだ。

そう思わされ、一切の力みを取り去り、神様に一切を委ねること。
それが
ここでいう敬虔(信心、信仰深さと訳される言葉)

こうして神様の大愛の中に憩う心が、
満ち足りている心




2013年2月23日土曜日

世の光として輝くことは、すべて信仰による マタイ5章16節

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5章16節)


あなたがたは、世界の光です。(マタイ5章14節)
で始まる。

世の光です。と言い切っている。
世の光になりなさい。とはいっていない。
私たちが、弱い者でも、罪ある者でも。
イエス様は私たちを「世の光」とみて下さるのだ。
イエス様が太陽、私たちが月というたとえのとおり、
光るのはイエス様。私たちは、イエス様の光をそのまま受けて光る。
イエス様の光によって、私たちは、世の光になることができる。


続けて、イエス様は、
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
と語る。

あなた方は、すでに光っているのだから、隠さずに人々の前に出て行きなさい。
とおっしゃっている。
自分の弱さや罪で後ずさりするな。出て行きなさい。
あなた方は、すでに輝いているのだから。
そうイエス様は私たちに語りかけているのだ。


人々があなたがたの良い行いを見て、
ここでいう「良い行い」とは、その人の立派な働きではない。
もし、その人の立派さだったら、人々があがめるのは、その人だ。
その人のがんばりではない。その人のがんばりなら、
がんばりその人が「がんばったね」と褒められるはず。

では、「良い行い」とはどんな行いか。
イエス様の光を受けているなら、その人の一つ一つの行動すべてが
「良い行い」だ。

食事をするのも
歌を歌うのも
仕事をするのも
勉強をするのも

イエス様の愛をいっぱいに受け、イエス様の許しを100%いただき、
愛されている者という歩む、すべての行動。
その一つ一つは、輝いている。
すべてがよい行いなのだ。

よい行いをしようと力んではいけない。
良い行いをみせようとがんばってはいけない。
イエス様に愛されているものとして、イエス様に許されている者として
歩むこと
そのすべてが「よい行い」なのだ。
人々は、許され、愛され、イエス様の光をたっぷりと受けている
その人の姿、行いを見て、


天におられるあなたがたの父をあがめる

ようになる。
すべては、イエス様がなしてくださること。
そう信じて歩み出すことが大切だ。


しかし、私たちは、自分からイエス様の光からはずれて暗闇に入ろうとする傾向がある。
世の光として輝くはずなのに。

人を裁きイエス様の愛をうけとらなかったり。
この世にひかれて、情欲を満たそうとしたり。
自分で輝こうとして力んだり、がんばったり。
自分はダメなものだ、ひきこもったり。
失敗したとき、自分をかばったり。

自分で光と反対の方向に歩み出そうとする。


けれども、そんな私をイエス様は、

世界の光です。

と呼んで下さる。
暗闇に入ろうとする私に、イエス様がなお光を当てて下さる。

私はただ、光であるイエス様の前にでていく。
それが悔い改め。
イエス様の光を受けて歩み出す。
それが「良い行い」。
そしてそれが信仰。




どんな気持ちで香油を ルカ7章37節~38節


すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。(ルカによる福音書7章37節~38節)


イエス様に高価な香油を塗った女。いったいどんな気持ちだったのだろう。
想像してみた。


心は重く暗かった。
表面は客を楽しませた。
肉的に情欲的に喜ばせた。
でも、私は罪を犯している。
私は罪の中にいる。
その思いが私を苦しめる。
でも、私のことは誰にもわかってもらえない。
罪悪感、さびしさ、悲しい気持ちでいっぱいだった。

イエス様なら私を分かってくれる。
出来ることならイエス様の前に行って、憐れみ深いイエス様に取りすがって、
この暗い私の罪のためにおもいっきり泣きたい。
このお方ならきっと聞いてくださる。そうにちがいない。

イエスがパリサイ人の家で食事をしていることを聞いた。
いてもたってもいられず着のみ着のままそのままで家を飛び出して
パリサイ人の家に入っていった。

そこにイエス様の姿が見えた。
憐れみ深いイエス様の姿を見ると、涙がこみ上げて滝のように溢れて止めることができない。
イエスの足下に立ったときには涙は雨のように流れてイエスの足下をぬらした。

ふくものを持っていなかったので思わず私の髪の毛をといた。
恥も忘れてその髪の毛を足ででぬぐった。

そのとき、イエス様の愛にふれた。イエス様のゆるしに気付いた。
このお方は、すべてをわかっている。
そして、私を受け入れて下さっている。
すべてを許して下さっていいる。
私を愛して下さっている。
罪のために流していた涙が、
喜びと感謝と言いようもない大きな感動の涙と変わり、
溢れてきた。

これまで大切にしていた高級な香油を、
愛するイエス様のためにささげたい。
私にとって、何よりも大切なのは、もはや香油ではない。
イエス様だ。
このお方にすべてをささげたい。
感謝とイエス様に対する敬愛の気持ちをもって
香油をイエス様に塗った。



女の心を想像して、私は、
私も、この女と心一つになりたい。
そう思った。

※ 主に、丹羽鋹之「ルカによる福音書4」を参考にした。



2013年2月4日月曜日

うるかすことも信仰? ルツ記1章1節

さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
                                          (ルツ記1章1節)


エリメレクとその妻ナオミは、ききんから身を守るために異邦の地モアブに移り住んだ。
バックストン先生は、これは「堕落の話」という。(ルッ記霊解)
ところが、別な注解書には
「聖書には信仰によるとも不信仰によるとも書いていない」とあった。

どのように受け取ればよいのだろう。
私はしばらくの間、調べたり黙想したりした。

そうしているうちに、
モアブに移り住んだエリメレクとその妻ナオミは信仰によったか、不信仰だったか
と追求することに危なさを感じてきた。
私は、エリメレクとその妻ナオミの歩みを冷たい目で見ていないか。
そう思われたのだ。

モアブに移り住んだ結末は、エリメレクと2人の息子の死であった。
ナオミはどれだけ悲しんだことだろう。
しかし、神様は、出ていった先、モアブで息子の妻ルツを与えて下さった。
そして、神様はルツを通して、大きな恵みを与えて下さった。
神様はナオミを最後は祝福の中に入れて下さった。
神様はナオミを愛してくださったのだ。
ナオミはどれだけ神様に感謝したことだろう。

私は、人の行動が信仰か、不信仰かという目で見すぎて
誤りを犯すことはないかと思えてきた。
その人の選択が信仰か、不信仰かと追求していくと、
「その人自身を愛する」ことから遠ざかってしまう危うさがあるのだ。

もちろん、明らかに誤りであるとき、
聖書にあるように、愛をもって正すこともある。

でも、その人の歩みの一切が神様のご計画の中にあることを信じて、
神様に委ねることも「信仰」だ。

その人が神様の祝福の中を歩めるように
祈り続けながら。


信仰か、不信仰かという問いは、
うるかすことにした。



2013年2月3日日曜日

自分を主としてしまう私へ② ~ヨハネ6章17節~20節

そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
                                    (ヨハネ6章17節~20節)

ヨハネ6章前半では、イエス様が5000人を5つのパンで2匹の魚で養われた記事がある。このことで、人々は、イエス様を王にしようとするが、それは、イエス様を神の子救い主として崇めるためではなく、イエス様を利用し、自分たちの思いを実現させるためであった。

自分の思いを実現させることを願い、イエス様を主とすることができない。
これが私たちの姿だ。
弟子たちも同じ。

その弟子たちは、歩み出す。しかし、
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
嵐の中に入っていくのだ。

自分を主として歩み出す者もやがて嵐に遭遇する。
自分を主としていては、
自分の力では、
自分の知恵、知識、判断では、
どうすることもできないように思える大きな波、風

自分を主とし、自分の判断を先立てる者は
イエス様をイエス様とは思えないぐらいにぶっている。
ただただ恐怖でいっぱいになる。
すべてのものが自分を襲ってくるようにみえる。

しかし、その場所で、イエス様は、ご自分を示される。

「わたしだ。恐れることはない。」

その声、その姿。神様の権威があった。
そして、神の愛があった。
「恐れることはない。」
もう大丈夫だ。安心しなさい と。

吹きまくる強風の中、イエス様を見間違う弟子たちに
はっきりとご自分を示されたイエス様。


改めてイエス様が神様であることを実感したに違いない。
そのとき、
自分を主とする心が消える。
自分の力では、自分の知恵、知識、判断にたよる心が消える。
そして、本当の意味でイエス様が私たちの主となる。
イエス様を自分の主として自分に迎える。


「わたしだ。恐れることはない。」
私たちも、イエス様の声を聞こう。
イエス様に出会おう。
自分にとらわれてどうしようもないその場所で、
嵐のように揺れ動いている場所で、

そのとき、私たちもイエス様を主として迎える。
今までとは違う、新しい歩みがはじまる。