2013年2月24日日曜日

満ち足りる心を伴う敬虔とは  ~「もっと○○を」からの解放~ テモテへの手紙第一6章6節

しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

                             テモテへの手紙第一6章6節



尽日春を尋ねて春を見ず
茫鞋踏み遍うす隴頭の雲
帰来適って梅花の下を過ぐれば
春は枝頭に在って已に十分


宋の詩人・戴益(たいえき)の「春を探る」という詩。ということだ。
私は、この詩を、丹羽鋹之「くおんの窓」P5から知った。

丹羽先生は

わたしがここにいても、どこにあってもどんな状態にあっても主の大愛に取り囲まれているといういことである。

とコメントしている。

満ち足りる心を伴う敬虔

はまさに、この詩の経験を信仰にあってさせていただくことだ。


もっと恵を
もっと平安を
もっと知恵を
もっと信仰を
もっと力を
もっとこの世のものを
もっと地位を
もっと幸せを
もっと…もっと…

わたしたちは、求めて、求めてさまよい歩く。
それは、春をさがして草履をすり減らすばかりの詩人と同じ。
しかし、詩人が自分の家の梅の花をみて、自分が春に取り囲まれていることに気づいたように

わたしたちも、すでにイエス様の大きな愛に取り囲まれていることに気づく。
もう何もいらない
すでに十分、私はすでに満たされているのだ。

そう思わされ、一切の力みを取り去り、神様に一切を委ねること。
それが
ここでいう敬虔(信心、信仰深さと訳される言葉)

こうして神様の大愛の中に憩う心が、
満ち足りている心




2013年2月23日土曜日

世の光として輝くことは、すべて信仰による マタイ5章16節

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5章16節)


あなたがたは、世界の光です。(マタイ5章14節)
で始まる。

世の光です。と言い切っている。
世の光になりなさい。とはいっていない。
私たちが、弱い者でも、罪ある者でも。
イエス様は私たちを「世の光」とみて下さるのだ。
イエス様が太陽、私たちが月というたとえのとおり、
光るのはイエス様。私たちは、イエス様の光をそのまま受けて光る。
イエス様の光によって、私たちは、世の光になることができる。


続けて、イエス様は、
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
と語る。

あなた方は、すでに光っているのだから、隠さずに人々の前に出て行きなさい。
とおっしゃっている。
自分の弱さや罪で後ずさりするな。出て行きなさい。
あなた方は、すでに輝いているのだから。
そうイエス様は私たちに語りかけているのだ。


人々があなたがたの良い行いを見て、
ここでいう「良い行い」とは、その人の立派な働きではない。
もし、その人の立派さだったら、人々があがめるのは、その人だ。
その人のがんばりではない。その人のがんばりなら、
がんばりその人が「がんばったね」と褒められるはず。

では、「良い行い」とはどんな行いか。
イエス様の光を受けているなら、その人の一つ一つの行動すべてが
「良い行い」だ。

食事をするのも
歌を歌うのも
仕事をするのも
勉強をするのも

イエス様の愛をいっぱいに受け、イエス様の許しを100%いただき、
愛されている者という歩む、すべての行動。
その一つ一つは、輝いている。
すべてがよい行いなのだ。

よい行いをしようと力んではいけない。
良い行いをみせようとがんばってはいけない。
イエス様に愛されているものとして、イエス様に許されている者として
歩むこと
そのすべてが「よい行い」なのだ。
人々は、許され、愛され、イエス様の光をたっぷりと受けている
その人の姿、行いを見て、


天におられるあなたがたの父をあがめる

ようになる。
すべては、イエス様がなしてくださること。
そう信じて歩み出すことが大切だ。


しかし、私たちは、自分からイエス様の光からはずれて暗闇に入ろうとする傾向がある。
世の光として輝くはずなのに。

人を裁きイエス様の愛をうけとらなかったり。
この世にひかれて、情欲を満たそうとしたり。
自分で輝こうとして力んだり、がんばったり。
自分はダメなものだ、ひきこもったり。
失敗したとき、自分をかばったり。

自分で光と反対の方向に歩み出そうとする。


けれども、そんな私をイエス様は、

世界の光です。

と呼んで下さる。
暗闇に入ろうとする私に、イエス様がなお光を当てて下さる。

私はただ、光であるイエス様の前にでていく。
それが悔い改め。
イエス様の光を受けて歩み出す。
それが「良い行い」。
そしてそれが信仰。




どんな気持ちで香油を ルカ7章37節~38節


すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油の入った石膏のつぼを持って来て、
泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。(ルカによる福音書7章37節~38節)


イエス様に高価な香油を塗った女。いったいどんな気持ちだったのだろう。
想像してみた。


心は重く暗かった。
表面は客を楽しませた。
肉的に情欲的に喜ばせた。
でも、私は罪を犯している。
私は罪の中にいる。
その思いが私を苦しめる。
でも、私のことは誰にもわかってもらえない。
罪悪感、さびしさ、悲しい気持ちでいっぱいだった。

イエス様なら私を分かってくれる。
出来ることならイエス様の前に行って、憐れみ深いイエス様に取りすがって、
この暗い私の罪のためにおもいっきり泣きたい。
このお方ならきっと聞いてくださる。そうにちがいない。

イエスがパリサイ人の家で食事をしていることを聞いた。
いてもたってもいられず着のみ着のままそのままで家を飛び出して
パリサイ人の家に入っていった。

そこにイエス様の姿が見えた。
憐れみ深いイエス様の姿を見ると、涙がこみ上げて滝のように溢れて止めることができない。
イエスの足下に立ったときには涙は雨のように流れてイエスの足下をぬらした。

ふくものを持っていなかったので思わず私の髪の毛をといた。
恥も忘れてその髪の毛を足ででぬぐった。

そのとき、イエス様の愛にふれた。イエス様のゆるしに気付いた。
このお方は、すべてをわかっている。
そして、私を受け入れて下さっている。
すべてを許して下さっていいる。
私を愛して下さっている。
罪のために流していた涙が、
喜びと感謝と言いようもない大きな感動の涙と変わり、
溢れてきた。

これまで大切にしていた高級な香油を、
愛するイエス様のためにささげたい。
私にとって、何よりも大切なのは、もはや香油ではない。
イエス様だ。
このお方にすべてをささげたい。
感謝とイエス様に対する敬愛の気持ちをもって
香油をイエス様に塗った。



女の心を想像して、私は、
私も、この女と心一つになりたい。
そう思った。

※ 主に、丹羽鋹之「ルカによる福音書4」を参考にした。



2013年2月4日月曜日

うるかすことも信仰? ルツ記1章1節

さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
                                          (ルツ記1章1節)


エリメレクとその妻ナオミは、ききんから身を守るために異邦の地モアブに移り住んだ。
バックストン先生は、これは「堕落の話」という。(ルッ記霊解)
ところが、別な注解書には
「聖書には信仰によるとも不信仰によるとも書いていない」とあった。

どのように受け取ればよいのだろう。
私はしばらくの間、調べたり黙想したりした。

そうしているうちに、
モアブに移り住んだエリメレクとその妻ナオミは信仰によったか、不信仰だったか
と追求することに危なさを感じてきた。
私は、エリメレクとその妻ナオミの歩みを冷たい目で見ていないか。
そう思われたのだ。

モアブに移り住んだ結末は、エリメレクと2人の息子の死であった。
ナオミはどれだけ悲しんだことだろう。
しかし、神様は、出ていった先、モアブで息子の妻ルツを与えて下さった。
そして、神様はルツを通して、大きな恵みを与えて下さった。
神様はナオミを最後は祝福の中に入れて下さった。
神様はナオミを愛してくださったのだ。
ナオミはどれだけ神様に感謝したことだろう。

私は、人の行動が信仰か、不信仰かという目で見すぎて
誤りを犯すことはないかと思えてきた。
その人の選択が信仰か、不信仰かと追求していくと、
「その人自身を愛する」ことから遠ざかってしまう危うさがあるのだ。

もちろん、明らかに誤りであるとき、
聖書にあるように、愛をもって正すこともある。

でも、その人の歩みの一切が神様のご計画の中にあることを信じて、
神様に委ねることも「信仰」だ。

その人が神様の祝福の中を歩めるように
祈り続けながら。


信仰か、不信仰かという問いは、
うるかすことにした。



2013年2月3日日曜日

自分を主としてしまう私へ② ~ヨハネ6章17節~20節

そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
                                    (ヨハネ6章17節~20節)

ヨハネ6章前半では、イエス様が5000人を5つのパンで2匹の魚で養われた記事がある。このことで、人々は、イエス様を王にしようとするが、それは、イエス様を神の子救い主として崇めるためではなく、イエス様を利用し、自分たちの思いを実現させるためであった。

自分の思いを実現させることを願い、イエス様を主とすることができない。
これが私たちの姿だ。
弟子たちも同じ。

その弟子たちは、歩み出す。しかし、
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
嵐の中に入っていくのだ。

自分を主として歩み出す者もやがて嵐に遭遇する。
自分を主としていては、
自分の力では、
自分の知恵、知識、判断では、
どうすることもできないように思える大きな波、風

自分を主とし、自分の判断を先立てる者は
イエス様をイエス様とは思えないぐらいにぶっている。
ただただ恐怖でいっぱいになる。
すべてのものが自分を襲ってくるようにみえる。

しかし、その場所で、イエス様は、ご自分を示される。

「わたしだ。恐れることはない。」

その声、その姿。神様の権威があった。
そして、神の愛があった。
「恐れることはない。」
もう大丈夫だ。安心しなさい と。

吹きまくる強風の中、イエス様を見間違う弟子たちに
はっきりとご自分を示されたイエス様。


改めてイエス様が神様であることを実感したに違いない。
そのとき、
自分を主とする心が消える。
自分の力では、自分の知恵、知識、判断にたよる心が消える。
そして、本当の意味でイエス様が私たちの主となる。
イエス様を自分の主として自分に迎える。


「わたしだ。恐れることはない。」
私たちも、イエス様の声を聞こう。
イエス様に出会おう。
自分にとらわれてどうしようもないその場所で、
嵐のように揺れ動いている場所で、

そのとき、私たちもイエス様を主として迎える。
今までとは違う、新しい歩みがはじまる。