テモテへの手紙第一6章6節
尽日春を尋ねて春を見ず
茫鞋踏み遍うす隴頭の雲
帰来適って梅花の下を過ぐれば
春は枝頭に在って已に十分
宋の詩人・戴益(たいえき)の「春を探る」という詩。ということだ。
私は、この詩を、丹羽鋹之「くおんの窓」P5から知った。
丹羽先生は
わたしがここにいても、どこにあってもどんな状態にあっても主の大愛に取り囲まれているといういことである。
とコメントしている。
満ち足りる心を伴う敬虔
はまさに、この詩の経験を信仰にあってさせていただくことだ。
もっと恵を
もっと平安を
もっと知恵を
もっと信仰を
もっと力を
もっと力を
もっとこの世のものを
もっと地位を
もっと幸せを
もっと…もっと…
わたしたちは、求めて、求めてさまよい歩く。
もっと…もっと…
わたしたちは、求めて、求めてさまよい歩く。
それは、春をさがして草履をすり減らすばかりの詩人と同じ。
しかし、詩人が自分の家の梅の花をみて、自分が春に取り囲まれていることに気づいたように
わたしたちも、すでにイエス様の大きな愛に取り囲まれていることに気づく。
もう何もいらない
すでに十分、私はすでに満たされているのだ。
そう思わされ、一切の力みを取り去り、神様に一切を委ねること。
それが
ここでいう敬虔(信心、信仰深さと訳される言葉)
こうして神様の大愛の中に憩う心が、
満ち足りている心