2013年3月3日日曜日

敬虔のための鍛錬とは Ⅰテモテ4:7


むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。Ⅰテモテ4:7




前に「満ち足りる心を伴う敬虔」について書いたところ、necosanpoさんから、

こんなコメントをいただいた。

すでにイエス様の大きな愛に取り囲まれていることに気づく。←そうですね。そこから、何度も遠ざかってしまったりしますが、だんだんと、イエス様に戻る時間が早くなってきたような気がします

このコメントを読んで、「敬虔のための鍛錬」とはこの方向なのだと思った。
鍛錬というと

 ・苦しみ
 ・努力
 ・向上

というイメージがある。しかし、「敬虔のための訓練」はそうではない。


わたしたちは、すぐイエス様から離れてしまう。

・自分で苦しみを抱え込む
・自分で努力しようとする。
・自分で自分を向上させようともがく

そのように、すぐ自分でがんばりだす。
イエス様の愛の中からとびだす。



このように、イエス様の愛から飛び出してしまったとき、
すぐに帰ってくることができるようになる。
これが敬虔のための訓練だ

力みをともなった訓練ではない。
力んだときすぐに力をぬく訓練だ。

・自分で苦しみ続ける私→イエス様のもとに来てイエス様にすべてをぶつける。
・自分で努力しようとする私→イエス様がすべてを為して下さることを信じる。
・40点を50点に向上させようとする私→イエス様に0点をつけていただき、イエス様100%になっていただく。


イエス様の大きな愛にすぐに帰り、
イエス様にすべてを委ね、
あっという間に、その平安の中で憩う私になる。


それが敬虔のための鍛錬だ。
necosanpoさんはその恵みの歩みを歩んでいる。