むしろ、敬虔のために自分を鍛練しなさい。Ⅰテモテ4:7
前に「満ち足りる心を伴う敬虔」について書いたところ、necosanpoさんから、
こんなコメントをいただいた。
・自分で苦しみを抱え込む
・自分で努力しようとする。
・自分で自分を向上させようともがく
そのように、すぐ自分でがんばりだす。
イエス様の愛の中からとびだす。
・自分で苦しみ続ける私→イエス様のもとに来てイエス様にすべてをぶつける。
・自分で努力しようとする私→イエス様がすべてを為して下さることを信じる。
・40点を50点に向上させようとする私→イエス様に0点をつけていただき、イエス様100%になっていただく。
すでにイエス様の大きな愛に取り囲まれていることに気づく。←そうですね。そこから、何度も遠ざかってしまったりしますが、だんだんと、イエス様に戻る時間が早くなってきたような気がします。
このコメントを読んで、「敬虔のための鍛錬」とはこの方向なのだと思った。
鍛錬というと
・苦しみ
・努力
・向上
というイメージがある。しかし、「敬虔のための訓練」はそうではない。
わたしたちは、すぐイエス様から離れてしまう。
・自分で苦しみを抱え込む
・自分で努力しようとする。
・自分で自分を向上させようともがく
そのように、すぐ自分でがんばりだす。
イエス様の愛の中からとびだす。
このように、イエス様の愛から飛び出してしまったとき、
すぐに帰ってくることができるようになる。
これが敬虔のための訓練だ
力みをともなった訓練ではない。
力んだときすぐに力をぬく訓練だ。
・自分で苦しみ続ける私→イエス様のもとに来てイエス様にすべてをぶつける。
・自分で努力しようとする私→イエス様がすべてを為して下さることを信じる。
・40点を50点に向上させようとする私→イエス様に0点をつけていただき、イエス様100%になっていただく。
イエス様の大きな愛にすぐに帰り、
イエス様にすべてを委ね、
あっという間に、その平安の中で憩う私になる。
それが敬虔のための鍛錬だ。
necosanpoさんはその恵みの歩みを歩んでいる。