2014年1月25日土曜日

信仰の成長とは何か~ヨセフの生涯を通して~

創世記37章 17歳のヨセフの信仰について2つの受け止め方がある。
  ア ヨセフは未熟である。
  イ ヨセフの信仰はすばらしい。
詳しくは2012年1月このブログで紹介した。
(http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2012/01/blog-post_08.html )

私は、イの立場を取ると書いたが、手持ちの注解書を読むとイの方が少数派のようだ。
アの立場は、新聖書注解、最近出たBIBLE navi。
ともに、ヨセフが高慢であったと書いてある。

すべてがアという訳ではない。
沢村五郎先生は、「聖書人物伝」に、「その生涯を貫いて、どのような小さなことについても一点の過失を見いだしえないのはヨセフだけである」と書いている。
パゼット・ウイルクス先生は「創世記講演」に、「彼(ヨセフ)の伝記には欠点が一つも記されて居らぬ故に完全なイエスの型と見ることが出来る」と書いている。

私は、「信仰とは何か」「信仰の成長とはなにか」いろいろと黙想していた。

いろいろなことが分かってきた。

前回(2012年1月)このように書いた。
「神様からのメッセージに自分の思いや考えを加えたり、人への配慮で曲げたりせずまま受け取る、そのまま伝える。これが、信仰者の姿だ。」

ヨセフは生涯このことを貫いていった。17歳の若者のときから、エジプトでその生涯を閉じるまで。ヨセフは、裏切りがあり、不義があり、罪ある自己中心な人々の中で、その社会を生き抜いた。神の言葉を決して曲げず、直面する多くの問題を解決できる信仰に高まった。

ここに、信仰の成長がある。つまり、

自分を愛し守る人々の中でもつ信仰
     ↓(から)
不信仰の人々、誘惑をしかける人々に囲まれたこの世を生きる信仰


神さまは、私たちにも、この異教の社会の中で生きていくことを求めておられる。
悪い人もいる、誘惑もある,、理不尽なことがたくさんあるこの世を生きろと命じられる。

そして、
神さまを信頼して、神さまとともに生きているか。
人におもね、(憎まれないように)神の言葉を曲げることは無いか。

私たちに問いかけられる。

私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ書1章2節~4節)

2014年1月12日日曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (0)「愛を追い求める」歩みとは

※ この項を読むときには、まず、(0)を読み、その後(1)、(2)、(3)…と読み進めて下さい。


愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
という御言葉がある。
美しい言葉だが、どのような姿が「愛を求める姿」なのか、この御言葉だけではわかりにくい。
私たちはどのような姿を求めていけばよいのだろう。


これこそ愛であるという聖書箇所がある。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(Ⅰヨハネ3:16)
似た箇所が何カ所かある。 ヨハネ3:16、ヨハネ15:13、ロマ5:8、エペソ5:2、Ⅰヨハネ4:10
イエス様は私たちの罪のために十字架にかかってくださり、私たちのそ罪を担って下さった。 そのことこそ愛であるというのだ。

このことから、「愛を追い求めなさい」とは、
「私たちのためにいのちをお捨てになったイエス様の愛を追い求めていきなさい」
といいかえることができると思われる。

Ⅰヨハネ3:16ではさらに言葉を続け、、「愛を追い求める」私たちの姿を明確に示す。
ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(Ⅰヨハネ3:16)

イエス様は命を捨てて愛を示された。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てて、愛をすべきだというのだ。

「愛を追い求めなさい」とは、
「私たちも兄弟のために命を捨て続けていきなさい」
といいかえてもよい。

でも、一つしかない、私の命を捨て続けるとはどのようなことなのだろうか。
丹羽鋹之先生は自らの講解の中で明確に語っている。引用する。


「私はこうして生きているけれど私は死んだ者で、本当の私の命はキリストです。それが私たちクリスチャンです。そうであれば、私たちキリストにある兄弟姉妹の交わりは、お互いが死んだ交わりではありませんか。生まれながらの私は死んで、キリストにある一つの命にある交わりです。それが教会の交わりであり、クリスチャン同士の関係です。それならば、キリストは私たちのために死んで下さった、それを信じる私たちも兄弟のために死ぬのは当然であります。私たちは自分という者に死んだ者ですから、その交わりはお互いに死に合っていく交わりです。そこがこの世の交わりと全然違うところです。これが御霊にあってはっきりされていけば、交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」
                (丹羽鋹之聖書講解「キリストの交わり」Ⅰヨハネ3:16~20より抜粋)

「交わりの中で自分を捨てていくこと、互いに死に合っていくこと」これが「愛を追い求めていく」具体的な姿の現れであるということだ。それは、自分の考え、自分の思い、自分の体験、自分の正しさそのすべてを捨てていくことでもある。
私たちは、「これが神様にある歩みだ」という確信をもつと、そのことで自分の正しさを主張してしまう。そして、互いに受け入れ合っていくことができなくなってしまう。そこから、数々のトラブルが生まれていく。そんな私たちに、Ⅰコリント13:4~7では、

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

と語られる。

「あなたは、ここで示される愛がないことを認めよう。そして、自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛である私(イエス様)に一切を委ねて歩もう。すると、私(イエス様)愛の働きを喜びと感謝をもってみることができるよ」

とイエス様は語りかけておられる。そのように歩むことが「愛を追い求める」歩みだ。

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (1)へ

2014年1月4日土曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (6)それでは日常的な愛はいらないのか?②~私の証②~

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (5)それでは日常的な愛はいらないのか?①に関連して、再び私の証を紹介する。

証①からかなりの年月が流れ、私は、私の教会に新たに赴任した牧師の言動に対して裁きの心が起こっていた。

配慮がたりない。そこで、それをいう?ということが多々あった。
特に、牧師先生の家族への発言には腹がたった。
学校に行けなくて悩んでいる孫に対して、
「あんな孫はこれまでいなかった」と語る。
お孫さんの痛みに対する共感はないのか。
なんて上から目線なのか。

私は、この思いをひたすら神様にぶつけていった。
2、3ヶ月は祈っただろうか。

すると、あるとき、その牧師先生の礼拝メッセージでの証が心に響いてきた。

それは、その牧師先生がまだ、20代半ばのころ。
年上のインテリな青年、インテリ故に前に進めなかった、信仰がもてなかった青年に対して、
「プライドを捨てなければいけませんよ」とアドバイスしてしまったというのだ。
年上の、しかもプライドの高いインテリ青年に対して。

牧師先生も、さすがに「しまった、いっちゃった」と思ったとのこと。
ところが、しばらく、沈黙が流れたそのとき、年上の青年が、
「おっしゃるとおりです。私は神様を信じます」
と告白した。
その先生は、献身し現在も牧師を続けているという。

この証を聞いて、私は、まず、
そうか、この先生は、昔から配慮が足りなかったのだ。
と思った。次に、
でも、この配慮の足りない牧師先生を通して神様は確かに働かれたのだ。
と思わされた。そして、
大切なのは、牧師先生の配慮の足りなさに目を留めるのでは無く、牧師先生を通して働く神様の働きを尊んでいくことなのだ。
ということが心に響いてきた。

そのとき、私の中から裁きの心が消えていた。
神様の愛の働きに感謝する心にいっぱいになった。

これが、祈りの答えだった。
神様のなさることは本当に不思議である。


愛する技術を習得する努力は悪いことではない。
日常的な配慮ができるのにこしたことはない。
しかし、その努力が自分の義となってしまった私に、
「自分の正しさを捨てて、愛を追い求めなさい。」

とイエス様は語られる。

自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねて歩む。そして、イエス様の愛の働きをただ、感謝と喜びをもって見ていく。愛を追い求める歩みは、本当に奥が深い。

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (5)それでは日常的な愛はいらないのか?①

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
という御言葉について説明してきた。

ここまでくると、問いが生まれる。
それでは、日常的な愛はいらないのか。

配慮
傾聴
愛の言葉かけ
贈り物

日常的に、相手の人を大切にする行為は確かにある。
その中には、技術的なこともあり、努力によって習得できることがある。
愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)という御言葉と日常的な愛、配慮、努力して習得する技術との関係はどうなのだろう。

私は、若い頃、「あなたは配慮が足りない」
と恩師(クリスチャン)からよくおしかりをいただいた。

そこで、私はここでいう「相手の人を大切にするための技術」について学んできた。

 ・来談者中心療法
 ・短期療法特に解決思考ブリーフセラピー
 ・認知行動療法
 ・内発的動機付けに関する研究
 ・統合失調症、鬱病や人格障がいについて
 ・発達障がいについて

これらの知識や技術は、私の日常的な人とのかかわりを大きく変えた。私は、弱さをもった人によりそい、その人にフィットしたかかわりを模索するようになった。そして、「ほんの小さなほほえみ」や「感謝の一言」の大切さを一層実感した。


人のために技術や知識を用いていくことは当然ある。
それは、日常の中のささやかな配慮となって現れる。
しかし、その知識や技術をもっている自分を、
神様の前に10点、20点…としていく価値あるものと認識するとことから、
私たちの間違いが始まる。

多く見られる例、それは、「人を愛する技術を持たない人を裁く」姿が現れることだ。

あの人は配慮が足りない。あれでは人を傷つける。
裁きの心がふつふつとわいてくる。

本気になって人を愛する努力(技術の習得)をした人ほど。
その傾向がある。

そのとき、改めて、「愛を追い求めなさい」(Ⅰコリント14:1)が迫ってくる。

自分には愛の無いことを深く思い、神様に求めていくか。それとも、自分を価値づけて人に要求するかが問われる。

ここで、失敗してしまう人もいかに多いことか。

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)とは、愛する努力をした人(技術の習得)にも語られる言葉なのだ。

愛を追い求めなさい(6)へ
http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_9404.html

2014年1月3日金曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (4)愛を追い求める歩み~私の証①~

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
の説明をしてきた.
ここで、私の証を紹介する。



就職してから通っていたM教会のとなりに中学生のWさんが住んでいた。Wさんは、お母さんとのけんかが絶えなかった。そのたびにM教会にやってきては「許せない。絶対にゆるしてやらない」大声で叫んでいた。私は、その様子をみながら、「マタイ7章に『人を裁くな』と書いてあるのにと思っていた。ところが、ある日私は、神様からのせまりを受けた。

「おまえはどうだったのか」「おまえは人を裁いていないのか」

私は学生時代、T牧師をKGk(聖書研究会)の指導者であるM先生と比べていた。すると、どうしてもT牧師のメッセージは地味で力がないように感じてしまった。また、「制限速度40キロの道路では、(例え車の流れが50キロでも)絶対40キロ以上出さないと宣言するT牧師の姿に、「どうしてもっと融通を利かせることができないのだろう」と思っていたのだ。

私は、「神様ごめんなさい」と祈り、1年ぶりにT牧師に会いに行った。そして、「T先生、私は学生時代T先生を裁いていました。すいませんでした。」とお話しした。すると、T牧師はにこっと笑って、「知ってましたよ」とお話しされた。

このT牧師の言葉に私は心を動かされた。学生時代、T牧師はとてもよく私の面倒をみてくださった。私のために祈ってくださり、アドバイスもくださった。その一つ一つは、すべて私がT牧師を裁いたいたことを承知の上でのことだったのだ。私は、T牧師の愛情に深く感謝した。

不思議なことが起こった。その後、私のところに、T牧師の融通のきかない言動についての情報が入ってきた。でも、私は、その言動をなんのひっかかりもなく受け止めることができるようになっていたのだ。むしろ、「T牧師らしいなあ」とT牧師をあたたかい目でみている私がいた。

私は私にT牧師を導いてくださり、御手の中で導いてくださった神様に深く感謝した。


この証では、自分の思いをうったえる前に、神様のせまりがあった。
すると、牧師先生をさばく自分の姿が大きく浮かび上がってきた。
そして、T牧師の姿はそのままなのに、私自身の心が変えられた。

「自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねる歩み」
それは、ただ、イエス様がなしてくださった愛の働きへの感謝で終わる。

愛の働きは型にはまらず予測不能。新鮮ですばらしい。

愛を追い求めなさい(5)へ
http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4.html

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (3)愛を追い求める歩み~ジョージハーバードの詩より~

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
愛を追い求めること(0)(1)でどういうことかを書いた。
愛を追い求めること(3)でその誤りを紹介した。
(3)では、(0)(1)のように歩んだ人ジョージハーバードの詩を紹介する。

文語なので、わかりにくい。長い。わかりにくい。
例としてはふさわしくないかもしれないが、
引用する。


みじめなる者

神よ、天使に汝の御名を讃えしめよ。
人は愚かなる、愚かなる者。
愚行と罪は彼の業。
彼は己が家の燃えおるに歌を歌う。
人は草にすぎず、人はそれを知る。
しかるに杯を挙げる。

いかにして汝、彼の愚を耐えた給うや。
彼はその杯を汝の故に失うことを惜しむ。
彼を制し、彼の傲慢に怒り給え。
彼はあらたむること能わぬ者、
畏を以て汝に仕うること能わぬ者なり。

何たる穢れを彼は身にまとうか、
己のみ知者と心得るかの如く。
汝の全き義と全知を
彼に知らしめ得る者一人だに無し。

人は汝に逆らい、
汝に仕うるを放棄せり。されど汝の御愛、彼を引き寄せ、
汝の慈しみの翼にて彼の愚行の染みを掩い給う。
背きし者をこらしめ給うこともなく。

わが神よ、
人は汝の御名を讃えうるを得じ。
汝は全き光、全き潔さ。
太陽も汝の御前にその光を失う。
汝の聖なることいかにして穢れたる者は知るを得ん。

人は汝に仕えるを得じ。
彼を去らしめて豚に仕えしめよ。
そこにそこ彼にふさわしき歓びあらん。
彼は汝の潔さえお好まず。
彼にふさわしき泥を与え、夜じゅうその中にて転がしめよ。

ああ愚かなる人よ、
そなたの眼いずこにあるや。
思い煩いの群がりの中にて失いしか。
ぼろをまといては天に至るを得じ。

(略)

人は曽はよき者なりき。
宝の手箱、くすしきものの器。
その花束、汝の喜びなりき。
パラダイスの園の栄えと恵み
彼の心と姿をきあざりてありき。

しかるに、罪彼をあざむけり。
人は天上の光のかすかなる一抹にすら至りうる足も翼もなき肉のかたまり。
そこここと、自我の暗礁にぶつかりてさ迷える病める舟なり。

否、彼にてはあらず。
神よ、そは我自身なり。
(「「神への径」 美川漾子より)



最後の二行の前まで、ハーバードは自分の思いのたけを神様にうったえている。
彼がどれだけ穢れた罪人か。傲慢なものか。そして迷い出ている者か。

ところが、最後にハーバードは神様の声を聞く。
そして、私自身が穢れた罪人傲慢なものであることを受け取らされる。
同時に、この自分に向けられたイエス様の深い愛も受け取らされただろう。
ハーバードにとって「彼」は問題では無くなる。
ハーバードにとってこの自分の罪を許して下さった
イエス様の愛がすべてになる。

まさに、「自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねる歩み」の具現だ。

「愛を追い求める」歩みの一つの例として紹介する。

愛を追い求めなさい(4)へ
http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4912.html

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (2)誤った思い込みによる失敗

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)(0)(1)で、愛を追い求めることはどのようなことか書いた。

ところが、この御言葉について間違った思い込みをしているクリスチャンがいる。

1 自分の愛を10点、20点、30点とあげようとする。
  自分から愛が出てくるという勘違いしている。
 すると、人は無理をする。そして、無理した分のゆがみがどこかに出てくる。

2 自分の思い(裁き、ねたみ…)を神様ではなく人にぶつける。
 これは間違いなく、とんでもないことになる。
 ところが、このような間違いをするクリスチャンが結構いる。

3 愛の実行を人に要求する。
 クリスチャンホームで親から子になされることがある。
 信者が牧師に要求すること、その逆もある。
 
  

この思い込みに従って行動すると必ず失敗する。

過ちの根本は、「自分からは愛がでない」ことを心から認められないということだ。
自分に全く愛がない、つまり0点である自分をはっきりと認めること。
すると、
自分は10点、20点、30点と点をあげることはできない。
自分はいっさいを神様のみに求めるしかない。
自分はとても人に愛を要求することが出来ない。
ということが分かる。
ところが、人は、自分は罪人だといいながら、
どこかで、自分は、何かができる存在だと思っている。
そして、自分に、人に愛を要求していく。

人はなんて誤りやすい罪人なのだろうか。

愛を追い求めなさい(3)へ
http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_1068.html


愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (1)実際の歩みの中で

愛を追い求めなさい。(Iコリント14:1)

※ この項を読むときには、まず、(0)を読み、その後(1)、(2)、(3)…と読み進めて下さい。
愛を追い求めなさい。(0)http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_12.htmlで、「愛を追い求める」歩みとは、どのような歩みかについて書いた。

ここでは、その歩みをもっと具体的に説明する。

クリスチャンにとって、「愛を追い求める」歩みとは、この世のそれとは異なる。
この世の人は、自分の人への愛情を10点から20点、30点と高めていく。

クリスチャンは、自分に愛がないことを認めることから始まり、
やはり自分には愛がないことを認めることで終わるといっていい。

神様を信じて歩み出すと、自分の罪深さ、愛のなさが露わにされる。

人を裁く。
人をねたむ。
人の困ったことには巻き込まれないことを願う。
自分はあの人よりはましだと思う。
人の失敗を喜ぶ。
人に無関心でもある。

「あの人はどうしてああなんだろう」
自分は正しいと思い、あの人は間違っていると思う。

「愛を追い求める」ために、私たちができることは、
その思いの一つ一つを神様にうったえることしかない。
人へではない、神様に思いのたけを申し上げていくことだ。

自分からは愛がひとかけらもでないことを知っているから。
愛は神様からしか現れないことを信じているから。
この自分の思いを自分で処理することができないことを知っているから。
この自分の思いを処理してくださるのはイエス様だけであることを信じているから。

すると、イエス様が事をなしてくださる。
イエス様ご自身が現れて下さる。
私たちを愛し、許し、その罪の身代わりとなって死んで下さった、
イエス様がイエス様の方法で。

これが、「愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)を実際に歩むということだ。
それは、
「自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねる歩み」
といっていい。
「愛とはかけ離れた私を通してイエス様の愛が現れる歩み」
ともいっていい。

私ができること、
それは、自分自身の罪を、自分ではどうすることのできない思いを
神様の前にさしだしていくことしかない。
だから、最後には、やはり自分には愛がないことを認めることで終わる。

しかし、その心には、感謝の心であふれている。
イエス様の愛が、イエス様の命が現れたことに。

愛を追い求めなさい。(2)へ
http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_8493.html