創世記37章 17歳のヨセフの信仰について2つの受け止め方がある。
ア ヨセフは未熟である。
イ ヨセフの信仰はすばらしい。
詳しくは2012年1月このブログで紹介した。
(http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2012/01/blog-post_08.html )
私は、イの立場を取ると書いたが、手持ちの注解書を読むとイの方が少数派のようだ。
アの立場は、新聖書注解、最近出たBIBLE navi。
ともに、ヨセフが高慢であったと書いてある。
すべてがアという訳ではない。
沢村五郎先生は、「聖書人物伝」に、「その生涯を貫いて、どのような小さなことについても一点の過失を見いだしえないのはヨセフだけである」と書いている。
パゼット・ウイルクス先生は「創世記講演」に、「彼(ヨセフ)の伝記には欠点が一つも記されて居らぬ故に完全なイエスの型と見ることが出来る」と書いている。
私は、「信仰とは何か」「信仰の成長とはなにか」いろいろと黙想していた。
いろいろなことが分かってきた。
前回(2012年1月)このように書いた。
「神様からのメッセージに自分の思いや考えを加えたり、人への配慮で曲げたりせずまま受け取る、そのまま伝える。これが、信仰者の姿だ。」
ヨセフは生涯このことを貫いていった。17歳の若者のときから、エジプトでその生涯を閉じるまで。ヨセフは、裏切りがあり、不義があり、罪ある自己中心な人々の中で、その社会を生き抜いた。神の言葉を決して曲げず、直面する多くの問題を解決できる信仰に高まった。
ここに、信仰の成長がある。つまり、
自分を愛し守る人々の中でもつ信仰
↓(から)
不信仰の人々、誘惑をしかける人々に囲まれたこの世を生きる信仰
神さまは、私たちにも、この異教の社会の中で生きていくことを求めておられる。
悪い人もいる、誘惑もある,、理不尽なことがたくさんあるこの世を生きろと命じられる。
そして、
神さまを信頼して、神さまとともに生きているか。
人におもね、(憎まれないように)神の言葉を曲げることは無いか。
私たちに問いかけられる。
私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。(ヤコブ書1章2節~4節)
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