2014年1月4日土曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (6)それでは日常的な愛はいらないのか?②~私の証②~

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (5)それでは日常的な愛はいらないのか?①に関連して、再び私の証を紹介する。

証①からかなりの年月が流れ、私は、私の教会に新たに赴任した牧師の言動に対して裁きの心が起こっていた。

配慮がたりない。そこで、それをいう?ということが多々あった。
特に、牧師先生の家族への発言には腹がたった。
学校に行けなくて悩んでいる孫に対して、
「あんな孫はこれまでいなかった」と語る。
お孫さんの痛みに対する共感はないのか。
なんて上から目線なのか。

私は、この思いをひたすら神様にぶつけていった。
2、3ヶ月は祈っただろうか。

すると、あるとき、その牧師先生の礼拝メッセージでの証が心に響いてきた。

それは、その牧師先生がまだ、20代半ばのころ。
年上のインテリな青年、インテリ故に前に進めなかった、信仰がもてなかった青年に対して、
「プライドを捨てなければいけませんよ」とアドバイスしてしまったというのだ。
年上の、しかもプライドの高いインテリ青年に対して。

牧師先生も、さすがに「しまった、いっちゃった」と思ったとのこと。
ところが、しばらく、沈黙が流れたそのとき、年上の青年が、
「おっしゃるとおりです。私は神様を信じます」
と告白した。
その先生は、献身し現在も牧師を続けているという。

この証を聞いて、私は、まず、
そうか、この先生は、昔から配慮が足りなかったのだ。
と思った。次に、
でも、この配慮の足りない牧師先生を通して神様は確かに働かれたのだ。
と思わされた。そして、
大切なのは、牧師先生の配慮の足りなさに目を留めるのでは無く、牧師先生を通して働く神様の働きを尊んでいくことなのだ。
ということが心に響いてきた。

そのとき、私の中から裁きの心が消えていた。
神様の愛の働きに感謝する心にいっぱいになった。

これが、祈りの答えだった。
神様のなさることは本当に不思議である。


愛する技術を習得する努力は悪いことではない。
日常的な配慮ができるのにこしたことはない。
しかし、その努力が自分の義となってしまった私に、
「自分の正しさを捨てて、愛を追い求めなさい。」

とイエス様は語られる。

自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねて歩む。そして、イエス様の愛の働きをただ、感謝と喜びをもって見ていく。愛を追い求める歩みは、本当に奥が深い。

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