一つの詩篇の中で反対の意味をもつ二文がある。
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。(詩62編1節)
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。(詩62編8節)
矛盾するような2つの文がどうして同じ詩に出てくるのか。
でも、これが、信仰者の経験なのだ。
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。(8節)
こう語る詩篇の記者「私」は、まず自分ことを
自分のすべての思いを神さまの前に申し上げていっただろう。
つらいです!
助けてください!
自分には力がないのです!
うまくいかないのです。
知恵がないのです!
助けて!
救ってください!
自分の罪は私の前にあります!
私は神さまを信じることができません!
私には信仰がありません!
神様 ただ憐れんでください!
自分に向かうのではない。
人に向かうのではない。
ひたすら神様に祈っていく。
ありのままの、そのままの思いを。
そうして、祈り抜いていくとき。
私の救いは神から来る。(1節)
が自分の言葉になった。
同時に、神様にすべてをゆだねた、お任せした。
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。(1節)
から始まる詩篇62篇が自分にとって真実の言葉になった。
だから、
あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。(8節)
と確信をもって語れる。