まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。 (マタイ18章19節)
大学時代KGK(キリスト者学生会)に所属していた。
昼休みにはDPMといってクリスチャンが一つの部屋に集まって祈り合っていた。
そのサークルに3年生のI先輩がいた。
私は、1年生。信仰に入ったばかりで弱々しく自分に自信がない頃だった。
ところが、そのI先輩とペアになった私に、
「私には、○○、○○という課題があるので祈ってちょうだい」
と言った。私はびっくりした。
私みたいな弱々しい者が先輩のために祈っていいのですか。
と心の中で思った。
その内容は忘れてしまった。
今思えば深刻な問題では無かったと思う。
でも、I先輩は自分の弱さを率直に語っていた。
よほど親しい友達でも話さないかもしれない、と思うような課題だった。
祈りながら、自分がとても大切にされているように感じた。
私は、私に「祈って」といったその先輩を心から尊敬した。
そして、その後、私の弱さや課題をその先輩に話し祈ってもらうようになった。
I先輩は私のあこがれの、大好きな先輩になった。
後で、分かったことだが、そのグループでは、顧問のM先生に、
「兄弟姉妹に祈ってもらうときは、祈ってもらう相手に期待してはいけません。
相手が祈りの中で向かう神様だけに期待するのです。」
と指導を受けていた。
I先輩は、その指導を忠実に実行していた。
だから、相手の能力や信仰の強さに関係なく、
自分の祈りの課題を私に率直に話すことができたのだ。
(もちろん、負えない重荷を負わせるようなことはしなかった)
でも、ともに、神様に向かって祈ってくれる友として、
I先輩が私を尊んでくださったことは確かだと思う。
その先輩との関係は大学を卒業して30年たつ今も続いている。
東日本大震災では、心配して電話やメールをくれた。
今も私のために祈ってくれている。
自分の弱さや課題を出し合い、祈り合うことが
神様にあるI先輩とのつながりを作っていったのだと思う。
二人の祈りは神様に期待する。そして、一緒に祈る相手を尊ぶことが大切。
その祈りを神様は喜んで下さるのだと思う。
2012年6月11日月曜日
2012年3月10日土曜日
私には、乏しいこと…ばかり(詩篇23篇1節)
主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。(詩篇23篇1節)
「神様、私は、この御言葉がアーメンといえません。
『主は私の羊飼い』ということは認めます。
でも、私には、乏しいと思えることが、生活の中でたくさんあるのです。」
そう祈り始めてからずいぶんたつ。
私は、普通の人とと比べると、アンバランスな人間だ。
人と比べて、できないこともたくさんある。
失敗も多い。
社会生活を送る中で、自分の意に反してうまいくいかないことがあまりに多い。
だから、「私には乏しいこと…ばかり」と思ってしまうのだ。
つい最近まで、仕事上の失敗の処理についてずいぶん悩んでいた。
ようやく、解決のめどがついて、ふと思ったことがある。
結局、神様に祈って、解決に向けて歩み出したとき、
その問題は解けていた。
でも、
私は、問題が起こると、その問題を自分で抱え込んでしまう。
問題から目をそらし、先送りする傾向がある。
だから、自分で解決を難しくしていただけではないか。
問題がおこったとき、すぐに、神様の胸に飛び込んで。
イエス様助けて下さいと叫び、イエス様に頼っていくのが
羊の姿。
羊になりきっていくとき、
イエス様は解決を与えて下さい。
必要なものを与えて下さる。
自分で自分の問題をなんともできないと思っていたら
失敗のゆげが立っているそのときに、
羊飼いなるイエス様のもとにいくしかない。
私は自分は乏しいといいながら、自分でなんとかしようとしていた。
私は傲慢だったのだ。
自分の乏しさを心から認め、羊になりきっていく。
羊飼いなるイエス様に祈り、頼っていく。
そのとき、
「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」(詩篇23篇1節)
が私の御言葉になる。私はそう信じた。
2012年2月18日土曜日
イエス様の愛の中にとどまる(ヨハネ15章9節)
わたしの愛の中にとどまりなさい。(ヨハネ15章9節)
イエス様は、「わたしの愛の中にとどまりなさい」
とおっしゃる。
イエス様は、わたしたちをイエス様の愛の中においてくださる。
だから、わたしたちは、とどまり続ければよい。
イエス様の愛の中にいれよい。
ところが、イエス様の愛の中から飛び出してしまう
というのが私の姿。私たちの姿だ。
イエス様の愛から飛び出してしまう理由は二つある。
一つ目は、何かがイエス様よりも麗しく見えてしまうこと
異性、仕事、地位、称賛、金、物、人、食べ物、酒、薬物…
それらを求めて、自分からイエス様の愛を飛び出す。
イエス様の恵みの世界を自ら拒否する。
二つ目は、人(自分)を裁くこと
許された者、イエス様の愛の中に置かれた者が
人(自分)の罪、欠点が許せない。
裁くことで、自分からイエス様の愛を飛び出す。
イエス様の許しを自ら拒否する。
私は、私たちは、いつのまにか、簡単に、あっという間に
イエス様の愛から、離れてしまう。
それでも、イエス様は、
「わたしの愛の中にとどまりなさい」
と語って下さる。
だから、
イエス様、罪人のわたしをお救い下さい。
わたしは、自分でイエス様の愛の中から出て行ってしまうのです。
今、イエス様の十字架を見上げます。
どうか救って下さい。
そう祈ることができる。
気がついたら、イエス様の愛に取り囲まれていた。
それが、悔い改め。
2012年2月12日日曜日
ダビデの悔い改め②(Ⅰサムエル12章15節~23節)
ダビデは言った。「子どもがまだ生きている時に私が断食をして泣いたのは、もしかすると、【主】が私をあわれみ、子どもが生きるかもしれない、と思ったからだ。しかし今、子どもは死んでしまった。私はなぜ、断食をしなければならないのか。(Ⅰサムエル12章22節~23節)
この箇所で、私は、学生時代、ダビデのすばらしい信仰の姿について学んだ。
第一は、「ダビデは、自らの罪の結果をそのまま受け取った」ということ。
悔い改めによって罪は許された。けれども、その罪の結果を突きつけられたとき、ダビデは、神様が為されたことは当然のこと受け止めた。神様の前に心からへりくだっている姿だ。
第二は、「ダビデは、神様のあわれみを信じて幼子のように祈った」ということ。
ダビデは、「罪の結果」であるで「子どもの死」をとどめていただくように祈った。断食もした。ダビデは、狂ったように神様に祈った。それは、神様を心から信じているからできることだ。
第三は、「ダビデは、自分の祈りが聞かれないという事実を率直に受け取った」ということ。
子どもの死を知ったとき、すぐに立ち上がるダビデの姿はさわやかだった。神様のあわれみを最後まで願ったが、聞かれなかったときはその事実を率直に受けとった。神様を心から信頼しているからこそできることだ。
ダビデの信仰の姿は、悔い改めた者が、その後、どのように歩めばよいかを教えて下さっている。
罪を告白し、幼子のように祈り、神様がなさることををそのまま受け取る。
その根底には、神様への心からの信頼がある。
私たちは、失敗をした後の対応で、失敗をしたことより大きな失敗をする。
それだけに、ダビデの悔い改め①②のダビデの姿は、私たちの模範だ。
大学を卒業してから、たくさんの失敗をしてきた私は、以前よりも深く思わされている。
2012年2月11日土曜日
ダビデの悔い改め①(Ⅱサムエル12章13節)
ダビデはナタンに言った。「私は【主】に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「【主】もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。(Ⅱサムエル12章13節)
20年近く前になるが、私は、ある一つの罪を犯した。
このとき、神様から明確な示しを受けた。
あなたのしたことは御心ではないと。
そこで、私は、牧師先生のもとに、駆け込んだ。
自分がしたことを牧師先生に話した。
そして、2人で祈ることになった。
私は、神様に「悔い改めさせて下さい…」
と祈った。
すると、牧師先生が祈りを止めてこうおっしゃった。
悔い改めるように祈るんじゃないんだよ。
悔い改めるんだよ。
そこで、私は祈った。
「神様、私は神様に罪を犯しました。」
すると、私の心に、
「主もあなたの罪を許す」
という言葉がとびこんできた。
ダビデも、自分の罪を告白したそのとき、神様から許しをいただいた。
イエス様は、私たちを罪の許そうとして待っていて下さる。
罪の告白することと、許しをいただくことは、同時の出来事であった。
2012年2月5日日曜日
私をきよめてください。(ヨハネ2章12節~22節)~イエスの宮きよめ
ヨハネ2章12節~22節は、イエス様の宮きよめの記事である。
柔和でおだやかな姿のイエス様が、この箇所では、
なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。(2章15~16節)
怒りに燃え切った姿になる。
このイエス様の姿をどう受け取ったらよいのか。
いろいろな説があるのだと思う。
私は、丹羽鋹之先生講解の中の「祈りの言葉」が強く心にひびいている。
まだ、本にはなっていないので、私の手元にある原稿から抜粋する。
「私の中に不純なものが入り込んでいるならば、どうかあなたがご覧下さい。そしていっさい隅々まで点検して、不純なものわが内に入り込んでいればこれを叩き出して下さい。あなたの御血潮をもって今日も隅々まで潔めて下さい。」
丹羽先生は、エルサレムの神殿の有様と、、「いつの間にか自分の欲が自分の自我が入り込んで、それを遂行する場所」になっている私たち自身の有様は同じだという。
そして、「宮をきよめたように、イエス様、私という神の宮をきよめてください。」それが私たちの祈りだと語っておられるのだ。
最初のこのメッセージを聞いたとき、私は衝撃を受けた。エルサレムの神殿の有様と自分の有様が同じだとは思っていなかったからだ。
でも、クリスチャンとして歩めば歩むほど、
丹羽先生の祈りは私の心にひびいてくる。
「なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし…」
のイエス様が私にはなくてはならない存在なのだ。
と思えてくる。
2012年2月4日土曜日
「罪を犯してはなりません」と語られたイエス様(ヨハネ8章11節)
「今からは決して罪を犯してはなりません。」ヨハネ8章11節
姦淫の女の記事で、ただ一人姦淫の女を裁くことのできるイエス様は、
「わたしもあなたを罪に定めない。」
とおっしゃった。
「イエス様は女のこの罪に対してなんと寛容か」と感じる人もいるかもしれない。
「イエス様は女のこの罪に対してなんと寛容か」と感じる人もいるかもしれない。
しかし、私は、イエス様はなんて厳しいお方なのかと思い、この御言葉について黙想した。
イエス様は続けて、
イエス様は続けて、
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
とおっしゃっているからだ。
この女に、
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
はとても厳しい言葉だ。
この女は、これまで、罪の中に生きてきた。
せっかく罪に定められなかったのに、再び罪の中に陥る可能性は十分にある。
この後、姦淫という罪の鎖から、自らを解放させることができるのか。
この後、姦淫という罪の鎖から、自らを解放させることができるのか。
イエス様の言葉に、女は困りはてはしなかったのか。
イエス様は、私たちが罪を犯すことで、自分で自分を不幸の中に入り込んでいくことを
よくご存じだった。罪の悲惨さ、悲しさをよくご存じだった。だから、イエス様は、深いあわれみをもって
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
と語られたのだと思う。
それにしても、イエス様の言葉通りに生きるのは難しい。
黙想の中で、
イエス様の言葉、イエス様の愛とあわれみを本当に受け取ったこの婦人は、
この後、イエス様にしがみついて生きていったのではないか。
と思うようになった。
「私は罪を犯す者です。」
「犯したくなくても犯してしまうのです。」
「どうかあわれんでください。」
と、祈りながら、イエス様から離れないで、しがみついて、生きていったのではないか。
そうやって生きていくとき、イエス様の命がこの婦人を生かしてくださった。
イエス様が罪から解放してくださった。イエスの言葉がなっていった。
イエス様の2つの言葉、
「わたしもあなたを罪に定めない。」
「今からは決して罪を犯してはなりません。」
は、ともに、
「私の十字架の愛を受け取って歩みなさい」
という愛の言葉だったのだ。
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