2018年9月1日土曜日

食卓からこぼれ落ちる愛 マタイ15章21節~28節

それから,イエスはそこを去って,ツロとシドンの地方に立ちのかれた。

  ツロ,シドンの地は,イスラエル人が住んでいたところではありません。そこには,信仰から離れてしまった人々が住んでいました。

  すると,その地方のカナン人の女が出て来て,

  とありますが,このカナンの女も異邦人。神さまを信じる民ではありません。ところが,このカナンの女が,
 
 叫び声をあげて言った。「主よ。ダビデの子よ。私をあわれみんでください。娘が,ひどく悪霊に取りつかれているのです。」

 と,イエスさまに訴えるのです。
 カナンの女は,娘がひどく悪霊に取りつかれていました。「娘を助けてほしい。」カナンの女は,必死にイエスさまに向かいました。 

 「主よ。ダビデの子よ。私をあわれみんでください」
 「私をあわれみんでください」
 
 子どもの救いを求めるカナンの女は,自分には何もない。ただ神さまの恵にすがるしかない。救いはイエスさまにしかない。というころが分かっていました。だから,カナンの女はただイエスさまのあわれみにすがるしかありませんでした。
 救いはただ,イエスさまにある。イエスさまのあわれみによる。だから,何が何でもイエスさまに向かうしかない。「私をあわれみんでください」と言って,イエスさまの前に出て行くしかない。これが,カナンの女の心でした。

「私をあわれみんでください」

 「私には何もない。救いはイエスさまにしかない。だから,ただ,ひたすらイエスさまに向かう。イエスさまに祈る。ただ,イエスさまのあわれみを求める。」私たちにはそのことしかできません。
 
 神さまの前に立ったとき,「自分には何もない存在だ」と告白するしかありません。私たちが人と比べていくらかのものを持っていたとしても,神さまの無限の前には0と同じです。自分で自分を救うことはできません。救いに必要なものを何一つ持っていません。そのことを本当に認めるとき,私たちもカナンの女のようにイエスさまに向かうしかありません。そして,私たちから出てくる祈りも,カナンの女のように「私をあわれみんでください」しかないのです。
 
 しかし,私は私の心にはいつも高さがあることを感じます。口ではなんといっても,心密かに,「自分には○○がある。自分は○○でやっていける。」と思ってしまいます。人と比べ,私はまだましだ。私には,○○があると思う。そう思いたい。その思いが祈りを妨げます。「私はあわれみを受けるような惨めな人間ではない」その思いによって祈りの応えを受け取り損ねます。心密かに持っている私の高さ,それがイエスさまの祝福を拒否してしまします。
 
 もし,高ぶりをもったままで祈りの答えが与えられたら,祈り通りの事実をいただいたら,私たちは一層高ぶるもの,神さまを侮るものになっていくかもしれません。自分を主をして,イエスさまを自分の思いを実現させる道具のように思ったら,それはもう信仰ではありません イエスさまの祝福は,心低きものに注がれます。そして,イエスさまは,私たちをその場所に導きたく願っておられます。だから,
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれみんでください」
と祈るカナンの女の姿は,本当に慕わしく思えます。

 「私をあわれみんでください」

ひたすら求めていくカナンの女に,イエスさまはどう答えたのでしょうか。

  しかし,イエスは彼女に一言もお答えにならなかった。

  イエスさまはカナンの女に一言もお答えになりませんでした。イエスさまは沈黙されたのです。そして,弟子達の願いを受けて語られたイエスさま,
 
  「わたしは,イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」

  イエスさまは,わたしとあなたは関係ないと答えられました。カナンの女は,沈黙の後,あなたは私とは関係ないと拒否したのです。
 そのとき,カナンの女はどうしたのでしょうか。

   その女は来て,イエスの前にひれ伏して,「主よ。私をお助けください」と言った。

  カナンの女は,一層心低い姿をみせました。イエスさまの前にひれ伏して「主よ私をお助けください」と  とイエスさまに懇願したのです。
 神さまの沈黙のとき,私たちの心には,「どうして答えないのか?」と責める,怒りの気持ちが浮かんでくるかもしれません。しかし,神さまからの答えがないとき,沈黙のとき,それでも私にはイエスさましかいない。ひれ伏して,一層へりくだって求めていくしかない。それがカナンの女の心でした。実はそれが神さまが求めておられる信仰です。
  神さまが求めておられるのは信仰です。イエスさまは,祈りの中で「どんなに沈黙されても,どんなに拒否されても,きっと神さまが答えてくださる」という信仰がもてるように導いてくださいます。

 この心低きカナンの女に対して,イエスさまは,さらに思いがけない言葉をかけます。

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」 

 子どもたちというのは,イスラエル人のこと,カナンの女は異邦人。神さまの民ではない異邦人を,イスラエル人は犬と言って馬鹿にしていました。

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」

  というのは,神さまの民ではないあなたに,恵を与えるのはよくないということ,ひたすらイエスさまに向かうカナンの女の願いを退けるように受け取れる言葉です。
 このイエスさま言葉,普通ならなかなか受け取れません。これだけ,ひらすらイエスさまを求めているのに,異邦人ということで拒否するのですから。

 ところがカナンの女は,イエスさまの言葉を受け入れます。

「主よ。そのとおりです。」

「犬」と呼ばれてもそのまま受け取る。軽蔑されても,「主よ。そのとおりです。」と。自分の思いを打ち砕く言葉のように思える言葉でも,

「主よ。そのとおりです。」 

と,ただ,ただ受け入れたのです。 

 私たちの心の奥底にあるのは,「我が思い為させたまえ」自分の思いを実現させることです。私たちは,どんなことをしても自分の思い通りにしたいのです。そのためなら,なんでもします。カナンの女は,自分の子どもが癒やされるためなら,人に何と思われようがひたすらイエスさまに訴えました。 

 「私をあわれみんでください」 
 イエスの前にひれ伏して,「主よ。私をお助けください」

イエスさまに向かうこと,それも,もしかしたら,心低く,イエスさまに向かえば,自分の子どもを癒やしていただけるかもしれないという思いが,心のどこかにあったかもしれません。しかし,

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」

 「自分の子どもを癒やしていただきたい。」という思いに留めを指す言葉です。この言葉を受け入れたら,もしかしから,自分の子どもが癒やされないかも知れない。自分には何もない,救いはイエスさましかない。だから,カナンの女はイエスさまに心低くすがってきました。しかし,その結果行き付いた所は,「自分の思いを全て捨てなさい」と思える言葉でした。

 「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」

 あなたの思い通りにはならないよ。と思える言葉です。この言葉を受け入れると自分の子どもが癒やされないかも知れない。けれども,カナンの女は,イエスさまのお言葉を受け入れました。

  「主よ。そのとおりです。」

 主よ。本当にそのとおり,私は卑しい罪人です。そして,本当にそのとおり,イスラエルの民に与える恵と祝福と愛を,わざわざ私たち異邦人である小犬に与えるのはよくないことです。カナンの女は自分の罪深さを認めました。カナンの女は,イエスさまの言葉を受け入れました。すべてをイエスさまに委ねました。すべてをイエスさまにお任せしました。

 「私をあわれみんでください」 
 イエスの前にひれ伏して,「主よ。私をお助けください」

と心低くイエスさまに向かったカナンの女は,「自分の思いを捨ててイエスさまを受け入れる,イエスさまに委ねる」という最高の謙遜の姿を見せました。

  「主よ。そのとおりです。」

 自分の思いを捨てて,イエスさまの言葉に生きる。イエスさまに委ねる。カナンの女はイエスさまを前にして,自分の信仰を表明しました。

 私たちの祈りにも同じようなことが起こります。あることを祈る,祈り続ける。けれども,イエスさまの答えは,「自分の思いを捨てなさい。イエスさまを受け入れなさい。イエスさまに委ねなさい」であったということです。私たちは,このイエスさまの導きをなかなか受け入れることができません。「自分の思いを捨てなさい。」…自分に死ぬとも等しいこと。しかし,イエスさまは私たちも導かれます。

  「主よ。そのとおりです。」

 神さまに一切を委ねる祈りに導かれます。その瞬間から,不思議な神さまの祝福を経験する。私たちも同じ証をもつことができます。

  「主よ。そのとおりです。」
 
 そう答えたとき,イエスさまに一切を委ねたとき,イエスさまにすべてをお任せしたとき,カナンの女の心にやってきたのは,自分の娘の癒やしを諦める悲壮感だったでしょうか。そうでは,ありませんでした。それは,カナンの女の口から思わず出てしまった次の言葉でわかります。

  「主よ。そのとおりです。ただ,小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

  「ただ」と訳されている場所には,原語のギリシャ語では,「そして」,「なぜなら」言葉がおかれています。新改訳聖書では,「なぜなら」では意味が通じないと思われるので,「ただ」という言葉に置き換えています。「そして」ということばのみの聖書もあります。しかし,私は「そして」,「なぜなら」という原語が一番カナンの女の信仰を表していると思います。
 カナンの女の言いたいことはこのようなことではなかったかと思います。

   主よ。本当にそのとおり,私は卑しい罪人です。
   そして,本当にそのとおり,イスラエルの民に与える恵と祝福と愛を,わざわざ私
  たち異邦人である小犬に与えなくても結構です。なぜなら,卑しい私は,神さまの愛
  のおこぼれ(パンくず)をいただくだけで十分だからです。娘は食卓からこぼれ落ち
  るイエスさまの恵と祝福」によって救われるからです。

 
 カナンの女が「主よ。そのとおりです。」  と答えたそのとき,カナンの女は,自分が本当に卑しい存在,罪人であること,小犬であることを認めました。そして,自分の思いを捨てました。すべてをイエスさまに委ねました。を同時に,カナンの女の心には,愛に満ちたイエスさまのお姿がカナンの女の心に強く響いてきました。イエスさまの大きな愛にふれたのです。
 
このことは,理屈ではありません。カナンの女に起こった事実です。

 カナンの女は,「主よ。そのとおりです。」と答えたそのとき,自分の罪深さを認めました。同時にイエスさまの愛を受け取ることができました。そして,小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。食卓からこぼれ落ちるイエスさまの愛を告白することができたのです。

 「イエスさまの愛は,本当に大きい。だから,イスラエル人へ注がれる恵と祝福のほんの少しのおこぼれをいただくだけで十分。「パン」ではありません。「パンくず」です。「パンくず」というほんのわずかのイエスさまの愛のおこぼれで娘は救われる。」カナンの女はそう信じたのです。

 イエスさまの愛は,人知をこえています。わざわざ,イスラエルの民に注ぐ恵と祝福と愛をを求めなくてもよい。食卓からこぼれ落ちる恵と祝福,愛の大きさ,すばらしさを信じて,「子どもたちのパンを取り上げて,小犬に投げてやるのはよくないことです」と答えることができたのです。

「ああ,あなたの信仰はりっぱです。その願い通りになるように。」

とおっしゃるほどの大きな信仰です。イエスさまの大きな愛を信じるカナンの女の信仰によって娘は癒やされたのです。
 
 私たちにも,自分の思いとは全く異なる答えをいただくことがあります。思ってみない事実をいただくときがあります。そのとき,私たちは,イエスさまがあたえてくださった答えや事実をなかなかうけとることができません。
 それは,私たちがイエスさまの恵と祝福,愛を自分で小さく限定してしまっているからかもしれません。カナンの女は,「主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」といいました。ここでいう「食卓」とは,「イスラエル」のことを指していますが,わたしたちは,イエスさまの恵と祝福,愛を「食卓」という小さなスペースに限定してしまうのです。私の信仰は,イエスさまの恵と祝福,愛を「食卓」という自分の考え常識という小さな範囲でしか考えることができません。そこには,高さがあります。自分の理屈,常識,が信仰より先立っています。だから,イエスさまが与えてくださる答えを,恵と祝福を受け止められないのです。
 
 ですから,私たちは,カナンの女のように歩むしかありません。沈黙のときが長く続いても,拒否されるように思うときも,カナンの女のようにへりくだってイエスさまを追い求めます。私には何もないから祈ります。イエスさまに一切があるから祈ります。イエスさまと向かい合います。イエスさまの前に出て行きます。自分の思いをイエスさまにぶつけていきます。本当にイエスさまと向かい合うのです。
 すると,イエスさまは私を,カナンの女のように,「主よ。そのとおりです。」という祈りに導いてくださいます。「主よ。そのとおりです。」と祈ったそのときは,私が弱い,罪人であることを心から認めたときです。自分の思いを捨てたそのときです。同時に,イエスさまの大きな愛にふれることことができたそのときです。そして,それは,自分の思いとは全く異なる答えや事実の中に,「食卓からこぼれ落ちる愛」を信じることができたときでもあります。「食卓」という自分の理解を超えたイエスさまの愛を見出すことができたそのときです。

 カナンの女が言うとおり,「主人の食卓から落ちるパンくず」,イエスさまの「食卓からこぼれ落ちる愛」がイスラエル民族を超えて全世界に与えられたことは,歴史が証明しています。イエスさまが十字架にかけられた後,福音は,救いは全世界に伝えられ,全ての人々がイエスさまの愛を,救いを受けることができるようになりました。現在は,卑しい小犬,日本人の私も神さまの愛のおこぼれ,主人の食卓から落ちるパンくずをいただいています。私たちもイエスさまの恵と祝福,愛をいただいています。イエスさまの愛は,カナンの女の言うとおり,人知を超えた本当に大きなものでした。

 「主よ。そのとおりです。」

 それは,自分の思いに死んで,神さまに一切を委ねた言葉であるとお話ししました。しかし,この言葉は,食卓からこぼれ落ちる恵と祝福,『食卓からこぼれ落ちる愛』に心から同意する言葉でもありました。

 「主よ。そのとおりです。」なぜなら,イエスさまの愛は本当に大きく,食卓からこぼれ落ちる恵と祝福,『食卓からこぼれ落ちる愛』は,本当にすばらしいと私は信じます。」
 今日の箇所で,一番私が教えられたのはこのことです。イエスさまの愛を,そのご計画の自分のちっぽけな頭ではとても理解できません。「食卓」という小さな世界に限定してしまうのが私です。しかし,「食卓からこぼれ落ちる愛」がどれだけすばらしいか。そのことが分かったとき,私は嬉しくなりました。

 そして,私たちは,『食卓からこぼれ落ちる愛』を信じる信仰を表明するその前に,

  「主よ。そのとおりです。」

という祈りがあったことを忘れてはいけません。神さまは,ご自分の愛を示されるそのとき,自分の思いを捨て,ただ,イエスさまに委ねて,イエスさまにお任せする祈りに導かれます。

 「主よ。そのとおりです。」

 自分に死んで,イエスさまに生きる祈りが与えられるのと全く同時に,イエスさまの圧倒的な愛,『食卓からこぼれ落ちる愛』を示されるのです。

 イエスさまの導きの中で,「主よそのとおりです」と祈ることができたら本当に幸いです。それは,自分の思いをすてるときです。自分の弱さや罪を心から認めるときです,同時にイエスさまの大きな愛にふれるそのときです。

 だから,私たちは,イエスさまにもっと向かい合いたい。「主よ。そのとおりです。」という祈りに導かれたい。自分の弱さや罪を心から認めたい。そして,イエスさまの愛に圧倒されたいと思いました。

 祈りを通して、イエスさまが導かれるのは,自分の思いとは全く異なる答えや事実の中に,「食卓からこぼれ落ちる愛」を信じる信仰だからです。