2012年10月20日土曜日

自分を主としてしまう私へ① ~ヨハネ6章15節~


そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。(ヨハネ6章15節)


イエス様は、5000人を5つのパンと2匹の魚で養った。人々は、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」といってイエス様を自分たちの王にしようとする。

力のある人を人の自分の上に立てたい。そんな心理が私たちにはある。
力ある人の下にいれば、自分は安心できる。守られるような気がする。
自分も力ある人のような気がする。
自分も力ある人になれる気がする。
そして、自分も力ある人のように、自分の思うようにできるような気持ちになる。

こうやって考えると、この心理は、自分の思いを実現するために力ある人を利用しているということになる。

あくまでも自分を主としている。
力ある人に従っているように見えるが、本質的には自分を変える気持ちはない。
そのようなことは、私たちの周りにいくらでもある。


イエス様を王にしようとする人々は、イエス様を王にしても
イエス様を「神の子」イエス様とあがめようとする気持ちはない。
自分の思いを実現してくれる道具として見ていた。
イエス様を利用しようとしていた。
本質的に、イエス様に従おうとする気持ちはなかった。

イエス様が、ただひとり、また山に退かれた。のは、
そのような人々の姿を見抜いていたからだ。

イエス様は山で神様に祈った。
人々が、心からイエス様を我が主として迎え、イエス様に仕えるものになりますように。
その祈りが、イエス様を、湖で吹きまくる強風に悩む弟子たちのもとに導く。


私たちも、自分を主として、イエス様を自分の思いの実現のための道具として利用していることはないか。
もしかしたら、ほとんどの祈りがイエス様ではなく、自分を主としている祈りかも知れない。

そのとき、イエス様は、
ただひとり、また山に退かれた
とあるように私たちの前から姿を隠される。
そして、私たちのために祈って下さる。

自分を主とする信仰から、イエス様を主とする信仰へ転換することは、
自分の力ではできない。
ただ、ただひとり、また山に退かれたイエス様の祈りによる。















































































2012年10月13日土曜日

私はどちらの場所にいるか~ヨシュア5章13節~15節


ヨシュア記5章13節~15節
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。


私たちは、日々いろいろな出来事に遭遇する。いろいろな人に出会う。その出来事や出会いによって一喜一憂する。
だから、悪いことがおこらないように、いい人に出会えるように、と祈る。
それが、私たちに幸せをもたらす鍵になると思えるからだ。


ヨシュアのように、これから戦いに向かう、しかも相手は強敵であればなおさら。
抜き身の剣をもって一人の人が現れれば、その人が自分にとって味方か?自分にとって敵か?と問う。
相手が自分の側に立っているのか、敵の側にたっているのか。
それが重要問題のように思えるからだ。


しかし、その一人の人の
「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」
という言葉は、ヨシュアを私たちの価値観と別の場所につれていく。

「相手が、自分の側に立っているのか、敵の側に立っているのか」ではない。
「自分が神様の場所にいるか、そして、その場所で足のはきものを脱いでいるか。」
と私自身が問われたのだ。

私が、素足でこの神様の地に立っているか。
私が、何も身につけないで神の手にすべてをお任せしておるか。
私が、ただ、神様のものになっているか。
私が、自分の身をおくところは神様の手の中か。

それが、戦いを勝利するための鍵となる。
神様の御手の中にさえあれば、すべての戦いに勝利することができる。
それがクリスチャンの信仰なのだ。


私はどちらの場所にいるのだろう。
「相手や状況が自分にとってどうか」を問う場所か。
「自分が神様の御手の中にあるか」を問う場所か。
私たちが立つのは2つのうちのどちらかしかない。
そして、後者の場所こそ「聖なる所」だ。

相手を問うのではない、状況を問うのではない。
私自身を問うものこそクリスチャンの道だ。


どんな相手でも、どんな状況でも。
私が、神の手にすべてをお任せしておるか。
を問う者になりたい。
そして、自らの足の靴を脱ぐものになりたい。