2012年8月24日金曜日

カインの罪に対する解放の道~放蕩息子兄との対比を通して~創世記4章5節

だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。(創世記4章5節)

しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。(ルカ15章29節)


創世記4章では、よくカインとアベルが対比される。また、ルカによる福音書15章に出てくる放蕩息子の譬では、兄と弟が対比される。
しかし、私は、カインと放蕩息子兄を対比すると神様の恵みがよく分かると思う。

最初に、カインは放蕩息子兄の似ている点をみてみる。

カインも放蕩息子兄も2人兄弟の兄。家庭の中で似たような環境にあった。

その2人が特に似ているのは、神様に対する心。
どちらも、「神様に対する奴隷の気持ち」を持っていた。
放蕩息子兄の言葉「ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え…」(ルカ15章29節)の「仕える」は奴隷として仕えるということを意味していることからそのことが分かる。
カインは熱心に地を耕した。そして、地の産物を持ってきて主に供え物とした。そのときの心も「備えなければ…」という心。放蕩息子兄と同じ「奴隷の心」だった。だから、カインの供え物は神様から顧みられなかった。

兄よりも弟の方が父から愛されているように見える状況に置かれたというのも似ている。
カインは、自分の供え物は神様から顧みられなかったのにアベルの供え物は喜ばれたということを知る。
放蕩息子の兄は、自分に対して一度も宴会が開かれることがなかったのに、放蕩の末帰ってきた弟に対して宴会が開かれたということを知る。

大きく異なるのは、このときの2人の姿だ。

「それでカインはひどく怒り、顔を伏せた」(創世記4章5節)
神様に向かわなかった。怒り、悔しさ、アベルに対する嫉妬、憎しみ、そして自己憐憫。カインのそのときの気持ちを神様に向けず、自分のへそのほうに向けてしまった。自分でその気持ちを抱え込んでしまった。自分でなんとかしようとしてしまった。

神様は愛をもって、「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。」その思いをすべて私にぶつけなさい。とカインに働きかける。神様が愛の方であることは、カインの時代も放蕩息子兄の時代も今の変わらない。

しかし、カインの心は下をむいたままだった。弟アベルを殺すこと、自分で自分の気持ちの処理をすることを選んでしまった。


イエス様は、放蕩息子の譬の中にカインとは異なる放蕩息子兄の姿を示す。
放蕩息子兄は、カインのように下を向かなかったのだ。

ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。(ルカ15章29節)
それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。(ルカ15章30節)

自分の怒りを神様である父にすべてぶつけた。怒り、悔しさ、放蕩息子弟に対する嫉妬、憎しみすべてを神様にぶつけた。放蕩息子兄はこのとき、下を向かず、神様に向かった。

放蕩息子兄は、自分の思いを自分で処理しなかった。怒りにみちた自分のすべてを神様に差し出した。


そこで、放蕩息子兄は愛に満ちた、神様の声を聞く。
「子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。」(ルカ15章31節)
神様は、カインに語ることのできなかった。カインが聞こうとはしなかった神様の御心を放蕩息子兄に語ったのだ。
その場所で、放蕩息子兄は神様の愛に触れることができた。


イエス様は、放蕩息子の譬を通して、カインの罪に対する解放の道を示したのだと思う。
下をむくのではない。自分の思いのすべてをもって神様にむかうこと、怒りに満ちた自分自身を神様に捧げる。そうすれば、カインは神様の愛に触れ、罪の道ではなく、恵みの道を歩むことができた。
カインがささげるべき供え物、それは、
「怒りに満ちてどうすることもできない自分自身」であったのだ。


この譬を聞いた、パリサイ人、律法学者は、結局カインの道を選んだ。カインのように、イエス様を殺してしまう。人の罪は本当に重い。

しかし、その後、クリスチャンは、イエス様の十字架によって、「放蕩息子兄の道」を歩むこと。信仰の道を歩むことができるようになった。

イエス様が放蕩息子兄の譬を示したのは、いつのまにか神様の恵みを忘れ奴隷の心になってしまう、カインの心をもつ私たちへの愛のメッセージなのだ。
イエス様は、私たちがカインの道を歩むのではなく、
「怒りに満ちてどうすることもできない自分自身」を神様にささげるという放蕩息子兄の道を歩み、
神様の愛を知るものに導いて下さるのだ。

2012年8月12日日曜日

Ⅰヨハネ3章16節 兄弟のためにいのちを捨てる こと

昭和52年6月2日祈祷会に語った「キリスの交わり」という丹羽先生の講解が心にせまってきた。


Ⅰヨハネ3章16節
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」
という御言葉についてこう語っている。引用する。

「私はこうして生きているけれど私は死んだ者で、本当の私の命はキリストです。それが私たちクリスチャンです。そうであれば、私たちキリストにある兄弟姉妹の交わりは、お互いが死んだ交わりではありませんか。生まれながらの私は死んで、キリストにある一つの命にある交わりです。それが教会の交わりであり、クリスチャン同士の関係です。それならば、キリストは私たちのために死んで下さった、それを信じる私たちも兄弟のために死ぬのは当然であります。私たちは自分という者に死んだ者ですから、その交わりはお互いに死に合っていく交わりです。そこがこの世の交わりと全然違うところです。これが御霊にあってはっきりされていけば、交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」

イエス様にあって死んだ者として、交わりの中でも自分を捨てていく。互いに死に合っていく。それは、自分の考え、自分の思い、自分の体験、自分の正しさそのすべてを捨てていくことでもある。
 
「これが神様にある歩みだ」という確信をもつと、そのことで自分の正しさを主張してしまう。そして、互いに受け入れ合っていくことができなくなってしまうというのが私たちの現実だ。

「交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」

そこにイエス様の愛が、イエス様の命が現れる。