2012年8月12日日曜日

Ⅰヨハネ3章16節 兄弟のためにいのちを捨てる こと

昭和52年6月2日祈祷会に語った「キリスの交わり」という丹羽先生の講解が心にせまってきた。


Ⅰヨハネ3章16節
「主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。」
という御言葉についてこう語っている。引用する。

「私はこうして生きているけれど私は死んだ者で、本当の私の命はキリストです。それが私たちクリスチャンです。そうであれば、私たちキリストにある兄弟姉妹の交わりは、お互いが死んだ交わりではありませんか。生まれながらの私は死んで、キリストにある一つの命にある交わりです。それが教会の交わりであり、クリスチャン同士の関係です。それならば、キリストは私たちのために死んで下さった、それを信じる私たちも兄弟のために死ぬのは当然であります。私たちは自分という者に死んだ者ですから、その交わりはお互いに死に合っていく交わりです。そこがこの世の交わりと全然違うところです。これが御霊にあってはっきりされていけば、交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」

イエス様にあって死んだ者として、交わりの中でも自分を捨てていく。互いに死に合っていく。それは、自分の考え、自分の思い、自分の体験、自分の正しさそのすべてを捨てていくことでもある。
 
「これが神様にある歩みだ」という確信をもつと、そのことで自分の正しさを主張してしまう。そして、互いに受け入れ合っていくことができなくなってしまうというのが私たちの現実だ。

「交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」

そこにイエス様の愛が、イエス様の命が現れる。








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