2012年10月13日土曜日
私はどちらの場所にいるか~ヨシュア5章13節~15節
ヨシュア記5章13節~15節
さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」
すると彼は言った。「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」
すると、【主】の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。
私たちは、日々いろいろな出来事に遭遇する。いろいろな人に出会う。その出来事や出会いによって一喜一憂する。
だから、悪いことがおこらないように、いい人に出会えるように、と祈る。
それが、私たちに幸せをもたらす鍵になると思えるからだ。
ヨシュアのように、これから戦いに向かう、しかも相手は強敵であればなおさら。
抜き身の剣をもって一人の人が現れれば、その人が自分にとって味方か?自分にとって敵か?と問う。
相手が自分の側に立っているのか、敵の側にたっているのか。
それが重要問題のように思えるからだ。
しかし、その一人の人の
「いや、わたしは【主】の軍の将として、今、来たのだ。」
という言葉は、ヨシュアを私たちの価値観と別の場所につれていく。
「相手が、自分の側に立っているのか、敵の側に立っているのか」ではない。
「自分が神様の場所にいるか、そして、その場所で足のはきものを脱いでいるか。」
と私自身が問われたのだ。
私が、素足でこの神様の地に立っているか。
私が、何も身につけないで神の手にすべてをお任せしておるか。
私が、ただ、神様のものになっているか。
私が、自分の身をおくところは神様の手の中か。
それが、戦いを勝利するための鍵となる。
神様の御手の中にさえあれば、すべての戦いに勝利することができる。
それがクリスチャンの信仰なのだ。
私はどちらの場所にいるのだろう。
「相手や状況が自分にとってどうか」を問う場所か。
「自分が神様の御手の中にあるか」を問う場所か。
私たちが立つのは2つのうちのどちらかしかない。
そして、後者の場所こそ「聖なる所」だ。
相手を問うのではない、状況を問うのではない。
私自身を問うものこそクリスチャンの道だ。
どんな相手でも、どんな状況でも。
私が、神の手にすべてをお任せしておるか。
を問う者になりたい。
そして、自らの足の靴を脱ぐものになりたい。
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