2012年1月14日土曜日

人生の最後でモーセは自分の働きをどのように受け止めていたのか (申命記3章18節~29節)


申命記3章において、モーセはいよいよ約束の地を前にする。そこで、モーセはヨルダン川を渡り、約束の地に入らせて下さいと神様に祈るがこの祈りは聞かれない。そして、モーセは約束の地を目の前にして天に召される。このときのモーセはどんな心境だったのだろう。人生の最後にモーセは自分の働きをどのように受け止めていたのだろう。

丹羽鋹之先生は、この箇所で、次のようにいっている。

「40年イスラエルの民を導いた。あんなひどい民をここまで導いた。あんな苦労があった。こんなこともあった。」という思いはモーセの中になかった。
イエスが「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」といわれたあの思いであった。
  (久遠のおとずれ第87号P12~14)

最初に私は、丹羽先生の言葉を私は素直に受け取れなかった。
40年も民のために働き、あれだけのことをしてきたモーセに「自分はこんなにがっばったのに」という思いが全くなかったのだろうか。
普通の人、というより私自身のこととして考えられない。自分の人生の終わりに、自分がしてきたことを誇りたくなるのは自然な気持ちではないか。それが全くなかったということがあり得るのか。

しばらくして、いや。あり得るのだ。人にはできないことも神にはできる。このことは、神様がモーセになした業だったのだ。私はそう思うようになった。

律法を与えられたモーセは、「人は、律法では救われないこと」、そして、「人は、やがておいでになるイエス様によって救われること」を示すことが最後の仕事だった。そのことの象徴が「約束の地に入れない」ということだった。だから、モーセは、神様の導きによって、「自分には罪しかない、ただ神様のあわれみがあるだけだ。私の歩みは、ただ神様に導かれただけだった。私を真に救うのはやがて来たるべきお方だ」と事実を受け止めた。そして、最後まで神様の御言葉に従ったのだ。モーセの中に自分の功績に対する誇りはなかった。「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白する心境だった。

「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白することは全く神の業なのだ。
これは、人生の終わりの問題ではない。日々、自分を誇りたがったり、誇れない自分を悲しんだりしている私自身を神様に差し出し、日々、「無益なる僕為すべき事をなしたのみ」と告白するように導かれること。そこに、神様の豊かな恵みとあわれみがある。そこに、信仰によっていただく神の業があらわれる。

モーセのように、人生の最後に、誇りではなく、感謝を持って自分の歩みをふりかえることができる者になりたい。






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