2013年4月10日水曜日

イエス様と共なる歩み ルカによる福音書24章13節~32節


  前回に続いて、礼拝で語らせていただいたメッセージを掲載する。今回は、平成25年3月24日にお話ししたもの。タイトルは、「イエス様と共なる歩み」 箇所はルカによる福音書24章13節~32節

1 はじめに

(1)1週間早い復活のメッセージ
 今日は少し寒い朝になりました。今日は暦の上では20日が春分の日。4月5日の「清明」までを「春分」というそうで、今は「春分」という期間になります。暦の上ではあたかくても実際の天候はずれるときがありますね。
  教会にも暦があります。今日から30日までは受難週、来週の31日がイースター、イエス様の復活を記念する日となります。
  今日は、イエス様復活の後の記事についてお話しします。友人の牧師に今日のメッセージの原稿を見せたら、「1週間早いんじゃないの」というご指摘を受けて、教会暦があったということに気づきました。でも、すこし、暦とずれていても、神様は、「イエス様と共なる歩み」というテーマを与えてくださいました。神様は自由なお方です。今、私たち一人一人に必要な御言葉を神様が示してくださったのだと思います。

(2)エマオへの道を歩む私

 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中で(24章13節)

  「ちょうどこの日」というのは、24章1節から12節の出来事があった日のことです。イエス様が十字架にかけられてから3日目。女の人たちが墓に行ってみると墓の中にイエス様のからだがない。墓が空っぽになってしまった。つまり、イエス様が復活されたちょうどこの日のことです。女たちはまばゆいばかりの衣をきた人が「イエス様はよみがえられた」と話すのを聞いたのですが、弟子達はその話を信じなかったというちょうどこの日です。

 ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中で
とあります。この弟子は、ペテロをはじめとする使徒ではありません。他の弟子です。2人の弟子はおそらくエマオ出身だったのでしょう。イエス様が十字架につけられたため、自分の郷里であるエマオに帰る途中であったと思われます。
 弟子の一人は、クレオパと言います。もう一人の弟子の名前は最後まで出てきません。そこには、もう一人の弟子はあなたです。というメッセージが込められているようにも思えます。想像してみてください。友人と共にエマオへの道を歩む私の姿を。人生の道を歩む私の姿といってもいいと思います。今日、私たちは、友と共に、エマオへの道を歩む私。人生の道を歩む私を頭の中に思い描きながら御言葉を読んでいきたいと思います。

(3)私の歩みはイエス様と共なる歩み
 
  そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(24章14節~15節)
 
   エマオへの道を歩むクレオパと私。イエス様のことが話題の中心でした。そこに、イエス様が近づいてきて共に道を歩いてくださいました。
  マオへの道、それは、私と友ふたりだけの歩みではありません。イエス様が共に歩いてくださる歩みです。私たちがいろいろな人生の道を歩むときもイエス様は自ら近づいてきて共に歩いてくださります。それは、神様の真実です。私たちの人生は「イエス様と共なる歩み」なのです。

(4)共に歩んでくださるイエス様に気づくために(今日のメッセージの概要)

 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(24章16節)

  イエス様は、私と共に歩んでくださいます。でも、私の方では、イエス様が共に歩んでくださることに気づきません。イエス様が共にいてくださることがわかりません。皆さんはどうでしょうか。イエス様が共に歩んでくださっているとはとても思えない。それも真実だと思います。
 そこで、今日、お話ししたいことは二つあります。一つ目は、共に歩んでくださるイエス様を分からなくする3つの方向です。どうしてイエス様がわからなくなってしまうのか、ということです。二つ目は、共に歩んでくださるイエス様に気づくための3つの方向です。
  今日の聖書の箇所には目が開けイエス様だということが分かるまでの過程が丁寧に示されています。御言葉を読んでいけば、私たちと共に歩んでくださるイエス様に気づく、イエス様が見えるようになるための方向がよく分かると思います。

2 共に歩んでくださるイエス様を分からなくする3つの方向
 それでは、共に歩んでくださるイエス様をわからなくする3つの方向について学んでいきます。

(1)とらわれ
   共に歩んでくださるイエス様を分からなくする方向の1番目は、「とらわれ」ということです。もう一度、16節を読んでみると、   

 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(24章16節)

 さえぎられていてとあります。言語は「クラテオー」捕らえる、支配する、固執する、保持するという意味を表す言葉です。弟子達は、イエス様のことを語り合っていたはずなのに、その議論にとらわれてイエス様の姿に気づかなかったのです。
 信仰の方向はがんばって何かが出来るようになることではありません。「何かにとらわれる」ことから自由にされる方向です。とらわれていなければ共に歩いてくださるイエス様に気づくことが出来るのです。イエス様はここにいるのですから。簡単にイエス様に気づくことが出来るのです。それを邪魔するのが、「とらわれ」。ここから自由になるのは子どもにでも出来る、とても単純で簡単なことです。ところが、罪にとらわれた私たちにはとても難しく感じます。

  昔、私は教会学校で中高生会を担当していたことがあります。後で聞いたのですが、教会学校で私が話したお話が、あるとき、中高生会で学んでいた姉妹(Aさんと呼びます)の心にとても強く響いてきたというのです。それは、「握っているその手を離せ」というタイトルでした。こんな話です。サルがあるガラスの瓶に入っていた飴玉に気づきました。そこでガラスの瓶に手を入れて飴玉を取ろうとしました。ところが、ガラス瓶の口が狭いため飴玉を握りしめた手が抜けなくなってしまいました。いくら力を入れて手を抜こうとしても抜けません。「握っているその手を離してごらん」とのアドバイスを受けるのですが、飴玉がほしいサルは決して手を離そうとしません。とうとう力つきてサルが飴玉を握るのをやめたらすっと手が抜けました。そのとき、ガラスの瓶が反対向きになり、飴玉が落ちてきました。という話です。
  そのAさんは、大学に行って好きな人が出来ます。その人はクリスチャンではありませんでした。その人と共にいるときには、なんともいえないうれしい気持ちになりました。心の高鳴りを感じたそうです。でも、これまであったイエス様にある靜かな心の平安が消えてしまいました。そのとき、サルの話を思い出すのです。その姉妹にとって、飴玉と彼氏が重なりました。Aさんが握っている彼氏。どうしてもその手を離すことが出来なくて苦しみました。でも、ついに、その彼氏と別れ、握っているその手を離したとき、神様はそのAさんにすてきなクリスチャンの夫を与えてくださいました。今は、とても温かいクリスチャンホームを築いています。Aさんは彼氏にとらわれました。でも、握っているその手を離したときイエス様の平安が戻ってきました。共に歩いてくださるイエス様の平安です。
 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(24章16節)
「しかしふたりの目はとらわれていてイエスだとはわからなかった」と読んでもよいと思います。
弟子達は、イエス様の出来事についての議論にとらわれました。Aさんは彼氏にとらわれました。
 私たちも、今、何かにとらわれているでしょうか。握っていて、離せないものがあるでしょうか。それへの固執は、イエス様を見えなくさせてしまいます。握っているその手を離すことは、ただ力んでいる自分の力を抜くことです。もしとらわれがあるのなら力を抜いて楽になりたいと思います。

(2)高ぶり
 共に歩んでくださるイエス様を分からなくする方向の2番目は、「高ぶり」です。17節から読んでいきます。

 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。クレオパという方が答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」(24章17節~18節)

 旅人の一人、クレオパは、イエス様に向かって、「あなただけが知らなかったのですか」と問いかけました。「あなただけが」という言葉を使ったのは印象的です。クレオパは、私は知っている。弟子である私たちは知っている。エルサレムにいた人々ならみんなエルサレムで起こったイエス様の出来事を知っている。と思っていたのですね。でも、「あなただけが」知らない。この言葉を、本当は「あなただけは」ご存じであるはずのイエス様に語りかけてしまいました。自分は知っている、自分たちは知っている。そう思っていても、実は自分が分かっていなかったことに気づかないということは多いのではないでしょうか。クレオパに見られるのは、「自分は知っている」という高ぶりです。もし、クレオパがへりくだった心をもっていたら、「あなただけは」などとは言わずに、私が知っていることは○○です。あなたがご存じでしたら教えていただけませんか。と教えを求める態度になったでしょう。
 私たちの人生も、いつの間にか、「自分はわかっている」と自分のことを過大評価しがちです。へりくだった言葉を使いながら、実は、「自分は分からない存在だ。絶えずイエス様に教えていただきたい。」とは思っていないということがあるのです。そのような自分の姿に気づいたら、すぐに神様のところに戻っていきたいと思います。 

(3)自分の立てた計画を捨てられない
 共に歩んでくださるイエス様を分からなくする方向の3つ目は、「自分の計画を捨てられない」ということです。19節から読みます。

 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエス様は見当たらなかった、というのです。」(24章19節~23節)
 
21節に、  
 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。
とあります。立派な望みのように見えますが、クレオパの望みは神様のご計画とは違っていました。クレオパは、イエス様がこの世の中で輝いてくださると思っていました。クレオパの頭の中の計画では、イエス様がこの世の王となり、エルサレムを立て直し、ユダヤの国を取り戻す。ということでした。クレオパはイエス様こそこの国の救い主、助け主になると大きな期待をもっていました。ところが、クレオパの頭の中の計画は、イエス様が十字架に死ぬことで無残にも打ち砕かれました。死んでしまっては、殺されてしまっては、もう王となることは出来ない、エルサレムを立て直すことは出来ない。どれだけ失望したことでしょう。17節に、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。とあるのはそのようなことだったのです。クレオパは、自分の立てた計画を握りしめ、自分の計画の成就しか本当の幸いはないと思っていました。ところが、計画通りにならないばかりか、計画にはない「イエス様のからだが見当たらない」ということが起こったのでこれはどういうことだと議論をしていたのです。
 私たちの人生の歩みの中でも同じですね。私たちは自分の計画を立てます。その成就が一番幸いなことだと思います。しかし、その計画通りにならないともうダメだ、もう終わりだと思ってしまう。それが私たちの姿です。
 でも、クレオパにとって絶望的なイエス様の十字架こそが神様の最高のご計画でした。イエスは、イエス様以外のものにとらわれ、高慢で、自分の計画を捨てられない罪人である私のために
私の身代わりに十字架にかかわってくださいました。イエス様の十字架によって私たちは救われるのです。イエス様の十字架によって命を与えられるのです。
 クレオパは自分の計画通りに行かなかったのに、自分の計画を捨てることが出来ませんでした。自分の計画に固執して、イエス様の十字架のすばらしい意味を知ろうとしませんでした。だからイエス様の姿に気づかなかったのです。イエス様が共に歩んでくださっているのに、イエス様が見えないのです。
 私たちの人生の歩みも同じですね。自分の計画しかないと思ってしまう。自分の計画通りにいかないともうダメだと思ってしまう。そして、神様のご計画を悟ることが出来ない。

K先生から聞いた話ですが、今、病床にあるお母さんのために長野に行っているI姉妹がK先生に、いかに自分が「自分の計画に固執する者」かということを証していたということでした。
 今はなくなりましたが、Iさんは、Iさんのお父さんになんとかして救われてほしいという願いがありました。どうすれば、救われるだろう。こうして、ああして、こんな風にすればきっと救われるに違いない。自分でいろいろな計画を立てました。ところが、自分の計画通りにいかないことが起こってくるというのです。神様は、お父さんが救われるために神様のご計画をもって臨んでおられる。ところが、自分の立てる計画が、お父さんの救いを邪魔してしまうことに気づいたというのです。自分がこーして、あーして。そうでなければお父さんは救われない。それが、神様の救いのわざを邪魔する。どうか、わたしがわざわいになりませんように。お父さんが救われるために、神様のわざがなりますように。そう祈ってきた。そして、最後にお父さんが救われるのですね。
 どうしても自分の計画が捨てられない自分を神様に差し出し祈りながら、最後に共に歩んでくださるイエス様の働きを感謝と涙と驚きをもって見ることが出来た。Iさんの証は、この次に学ぶイエス様の姿を見る大きなヒントを与えてくれたと思います。
 今、Iさんは、今度はお母さんの救いのために、祈りをもって歩み出しています。Iさんのために祈っていきたいと思います。

 
3 共に歩んでくださるイエス様に気づくための3つの方向
 次に、共に歩んででくださるイエス様に気づく、イエス様が見えるための3つの方向について学びます。
(1)愚かな自分であることを認める
 24~25節を読みます。

 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24章24節~26節)

 共に歩んでくださるイエス様に気づく方向の1番目は、「愚かな自分であることを認める」ことです。イエス様は、2人の弟子に、ああ、愚かな人たち  と語りかけます。あなた方は本当に不信仰だ。心が鈍い。本当に馬鹿だなあ。ということです。聞き方によってはかなり酷い言葉です。でも、この御言葉を読んでいく限り、2人の弟子は、イエス様の言葉を受け入れています。それは、この後、「いっしょにお泊まりください。」とイエス様にお願いするということからも分かります。
 ああ、愚かな人たちイエス様が語られるとき、主よその通りです。私は愚かなのです。どうか私をお救いください。その祈りの中で私たちは、私たちとともに歩んでくださるイエス様が私のとなりでにこにこ笑っていてくださることに気づきます。
  ガラテヤ人への手紙3章1節に ああ愚かなガラテヤ人 という御言葉があります。この言葉でパウロはガラテヤ人に向かって「愚かな人」と呼びかけています。私はこの言葉に思い出があります。
  学生時代、聖書研究会の合宿中のことでした。参加していたみんな、とても恵まれ、いきいきとした顔で証をしていました。ところが私一人が暗い顔をしていました。まだ、洗礼を受けて1年目のことです。みんなどうしてそんなにいい証が出来るのだろう。私は、どうして恵まれないのだろう。私の○○が悪いのか、□□が悪いのか。暗い気持ちのまま、M先生のもとにいきました。すると、M先生は、そんな私の話を聞いて厳しいアドバイスをしてくださいました。
「どうしてそんなに自分のことばかりみるのか」
「患者は医者の前にいって、自分のからだのことを話し後は医者の診断に任せるだろう」
「自分は、自分は…というのは。『へそみ信仰』だ。自分のへそばかり見て悩んでる」
ところが、そんなことを言われてもどうしてよいかわかりません。「へそみ信仰の自分はだめなのだ」と悩みは一層深まってしまったのです。
 その春休みのある日、一つのメッセージテープを聴きました。丹羽鋹之先生の「おろかなるガラテヤ人」というメッセージでした。私たちは、霊で始めたものを肉で仕上げてしまう。おろかなのは丹羽おまえ自身だ、私の教会員だ。そう語るメッセージを聞いて、「ああ、私は愚かなんだ」ということがすっと受け入れられました。そのとき、不思議なことに明るさが自分の中にやってきたのです。
 自分の愚かさを認められないときにへそみ信仰がはじまります。でも、イエス様を見上げたとき、イエス様の許しの中で「私は愚かです」と認められる恵があるのです。
 イエス様の御手の中で明るくさせれるよい経験でした。
 神様の前にへりくだる。愚かな人と言われたら、アーメン愚かな私です。イエス様は、私たちをそのように導いてくださいます。そして、共に歩んでくださるイエス様との出会いを与えてくださるのです。

(2)御言葉に聴く
 共に歩んでくださるイエス様に気づく方向の2番目は、「御言葉に聴く」ことです。27節を読みます。

 それから、イエスは、モーセ及びすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。(ルカ24章27節)

 イエス様は、2人の弟子に、モーセ及びすべての預言者から始めて、聖書全体でイエス様について書いてある事柄を解き明かされました。イエス様がおいでになる前のことが書かれてある旧約聖書には、イエス様のことが預言されています。イエス様の十字架が預言されています。イエス様の十字架がすべての人々をその罪からお救いになることが書かれています。旧約聖書は、これからおいでになるイエス様のことが書かれていると言ってもよいのです。そして、新約聖書は、この世においでになったイエス様のことが書かれています。聖書を読めば、神様のご計画、そしてイエス様のことがわかるのです。
 私たちの人生で、御言葉、聖書の言葉に聴くことは本当に大切です。こうして、皆さんと共に御言葉に聴く、御言葉に学ぶ。すると、御言葉自身が語り始めます。わたしの心に迫ります。そして、共に歩んでくださるイエス様に気づかされるのです。
 礼拝でのメッセージ、個々に御言葉を読む時間、本当に大切にしたいと思います。

(3)イエス様を求める
 共に歩んでくださるイエス様に気づく方向の3番目は、「イエス様を求める」ことです。28節~29節を読みます。

  彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
  (ルカ24章28節~29節)

  いよいよエマオへの旅路も終わりました。そこで、イエス様はまだ先に行きそうなご様子でした。しかし、2人の弟子は、  いっしょにお泊まりください と 無理に願った とあります。
  弟子達は、まだ、この人がイエス様であることに気づいていません。自分の計画は破れた。でも、神様のご計画について聞くことが出来た。まだまだ、むなしい心をもちつつ、2人の弟子は、寂しい心、むなしい心でイエス様を求めたのです。それが、いっしょにお泊まりください と 無理に願った  という行動に表れたのです。
  今もそうです。まだわからないが求める、その者の求めを決してイエス様はむなしくなさりません。求めるものの求めを必ず聴いてくださる。そして、共にとどまってくださる。だから、求めようではありませんか。イエス様、あなたのことがわかりません。どうかイエス様ご自身を現してください。イエス様はこの求めに答えてくださいます。そして、ご自身を与えてくださいます。相手の人に悪いから…などと自分で求めを止めてはいけません。そのまま求めていきましょう。この求めが、弟子達の目が開かれる前提となりました。
  30節~31節を読みます。

 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。(ルカ24章30節~31節)

 目が開かれ というのは、さえぎられて と反対の言葉です。今まで目をさえぎっていたもの、とらわれていたものがスーととられるという状態です、ここに来て、弟子達は、今まで気づかなかったイエス様の姿を見ることが出来たのです。このときの、弟子達の喜びは本当に大きなものだったと想像できますね。


4 おわりに
 今日のメッセージのまとめをします。

(1)私たちは必ず目が開かれる
 私たちの歩みも、目が開かれ  るときが必ず来ます。本当に私の人生をイエス様が共に歩んでくださるのだろうか。不安でしかたがない。という人もいらっしゃるかもしれません。でも、
今日学んできた方向。自分のとらわれから自由になることを願う、高ぶる自分を神様に差し出しへりくだる者にされる、自分の計画を捨てる、そして、自分が愚かなことを認め、御言葉に聞き、イエス様を求める。私の人生の中でその方向を大切にしていくとき、イエス様は必ず私の目を開いてくださる。すでにイエス様は私と共に歩いてくださっているのです。御言葉がそのことを示してくださっているのです。  目が開かれ イエス様が共にいてくださることを実感する喜びを経験したいと思います。

(2)共に歩んで下さるイエス様がおられるだけで大丈夫
 最後に32節を読みましょう。

 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24章32節)

 この二人ははじめから心を燃やす存在に変えられたのではありません。いつの間にか、イエス様が共に歩んでくださり、イエス様に引きつけられ、イエス様を求めずにはおられない存在に変えられていきました。
 もちろん、心が燃えることはすばらしい。共に歩んでくださるイエス様に目が開かれることもすばらしい。でも、なにより大切なことは、「イエス様が私とともに歩んでくださる」そのことです。私が気づいていても、気づいていなくても。心が燃えていても、燃えていなくても。イエス様が共に歩いてくだされば、必ずイエス様が今日学んできた方向に導かれるのです。自分は愚かな者です。自分の計画も当てにはなりません。でも、御言葉は確かです。私とともに歩んでくださるイエス様は確かなお方です。このイエス様が共に歩んでくだされば大丈夫です。
 今の自分の姿にとらわれる必要はありません。イエス様と共なる歩みを歩んでいきましょう。イエス様と共なる人生を生きていきましょう。 

0 件のコメント:

コメントを投稿