2013年4月13日土曜日

信じることが神のわざ  ~信仰と行いの関係について~ ヨハネ6章29節

                                          
 礼拝メッセージ3回目、タイトルは「信じることが神のわざ」聖書はヨハネ6章29節。平成21年7月26日(日)。少しカットしたがメッセージの意図は伝わるように工夫した。信仰と行いの関係についてできるだけ分かりやすくお話しした。小学校の教師として、学校での経験を例話に用いている。
 


  イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」(ヨハネ6章29節)


1 はじめに 

   今日の聖書の箇所では,彼らは,「神のわざを行うために,わたしたちは何をしたらよいでしょうか」とイエス様に質問しています。神に義とされるために,神からよしとされるために何をしたらよいのか。すると,イエス様は「神に使わされた者を信じることが神のわざである」とお答えになりました。彼らが何をしたらといかと質問した神のわざは複数形です。それに対してイエス様のお答えになった「信じること」という神のわざは単数形。つまり,イエス様は,「神のわざはイエス様を信じることただ一つ」とおっしゃっているのです。ピンときたでしょうか。
   今日は,最初に,「神のわざは信じることだだ一つ」というのはどういうことか。次に,「信仰」と「行い」はどのような関係にあるのかについてお話しします。


2 神のわざは信じることただ一つ。 

(1)「信じる」とは神様の愛を受け取ること
    はじめに,イエス様が語られる信仰について,確認していきたいと思います。キャサリンマーシャルは「信仰の翼の一つは神の力,神の愛を知ること」と言いました。そのとおりなのです。
   イエス様は,私たちを愛してくださりました。私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。そして,イエス様を信じる者が永遠の命を与えられるという道をつくってくださいました。
  「私は命のパンである」「私は道である」イエス様はそう語られます。そのイエス様を信じること,イエス様を私の救い主として心にお迎えすること,それが「信じること」信仰です。
    「行い」によって神様に義と認められるのではない。私たちを愛してくださるイエス様に心から信頼すること,ゆだねていくいこと,そのことでイエス様が与えようとしてくださる「愛」を,「義」を「永遠の命」を受け取ることができるのです。私たちが救われることに対して「行い」は何の役に立ちません。
   イエス様の救いを小さくみてはいけません。滅び行く者が救われる,神の御支配に入れられる。そのことは何とすばらしいことでしょう。私たちを愛してくださるイエス様の愛を心から信じて受け入れるものになりたいと思います。

(2)「信じる」者が体験する力み
   ところが,実際に信じて歩み出すと,イエス様を信じて歩むことがいかに難しいかということがわかります。そのことをイメージするために,学校での水泳指導の話がぴったりだと思ったのでお話したいと思います。
   夏は水泳の季節ですね。小学校の教師をしている私も随分水泳の指導をしました。子どもたちはプールが大好き。でも,泳げるかどうかは別。水を楽しませながらどのようにして泳げる子に育てるか。そこが教師の腕のみせどころです。
  泳げない子に対して,私はよくその子の両手をもってあげました。両手をもってバタ足をしてもらうのです。上手な子はすうっと進んでいきます。体の力がぬけていることがよくわかります。でも,泳げない子は違います。体に力が入ります。特に,腕から肩にかけてはよくもまあというくらいの力が腕に入ります。力が入ると,まず,腕が曲がる。伸ばせない。そうすると頭が上にあがる。足が下に下がる結果として沈んでいく。いくら足をバタバタさせても前に進まない。
  そういう子に,それでも,両手を持って指導します。少しずつバックしながら,その子を前に進ませてあげる,やさしく「大丈夫だよ」「力を抜いてごらん」と声をかけます。すると,やがて,力が抜けていきます。腕が伸ばせるようになります。頭を水につけられるようになります。足のつまさきが伸び,きれいなバタ足ができるようになり,前に進むようになるのです。水泳の場合,次のステップ,ビート板を使った練習に入ります。
  信仰も似たところがあると思います。信仰とは,イエス様を信じてイエス様に自分をゆだねることです。イエス様に両手を引いてもらう。ところが,信じているはずなのに,心は,体は,信仰はがちがちと力が入っている。泳げない子が大きくバタバタ足を動かすように一生懸命前に進もうとする。でも,なかなかうまくいかない。
 この「力が入ってしまう」というのが私たちの姿だと思います。信仰の場合,この「力み」は,「行い」という形で現れていきます。何かをしよう,何かができなくては神様に認められない。人に認められない。両手をもって引っ張ってくれるイエス様にゆだねながら進んでいけばよい私たちがそれ以外のことをしようとしてしまう。それ以外のことで神様に認められようとしてしまうのです。

(3)信じるとは「自分の無力と向かい合うこと」
  自分の力を抜くといってもそう簡単にはいきません。どうしても力んでしまう私の側をみてしまうと途方にくれます。
   どうして,力んでしまうのですか。バタ足ができない人が力む理由は恐怖心です。水が怖いのです。怖いから水に顔がつけられない。だから,先生に握られている手に力が入ります。信仰の力みはどこから生まれてくるのでしょう。それは,「自分の無力と向かい合う」ことの恐怖です。神様の愛と神様の力を知って歩み始めると無限なる神様にふれると,一層自分の無力がみえてきます。自分には何の力がない。でもそのことを認めることは恐怖です。簡単なことではありません。自分の無力を認めたとき自分は生きていけるのだろうか。不安でいっぱいになるのが自然です。
   実際に私たちは無力です。だから,イエス様の愛を受け入れるとき,同時に自分の無力であるという現実を受け入れることができるといえます。いいかえれば,イエス様の心から信じるとき無力である自分と真実に向かい合い,無力である自分を受け入れることができる。そのとき,わたしたちから力みがとれていきのです。キャサリン・マーシャルが,「信仰が飛び立つには自分の無力を知ること」というのは,まさにこのことなのです。
   私たちの手を引いてくださる方はイエス様なのだ。大丈夫なのだ。自分がイエス様の働きをじゃまする力みしかないけれどイエス様におまかせすればいいのだ。それが「信じること」です。信じるものの歩みです。わたしたちがわたしたちの身をゆだねたお方が救い主だから,大丈夫なのです。そうやっていろいろな出来事の中で信仰に導かれ,私たちの力みがなくなっていきます。

(4)「信じる」者の歩み 
  もう15年前のことなのでお話ししてもいいと思うのですが,結婚して1か月たたないぐらいして妻のHがかぜをひいて寝込んでしまいました。引っ越しをしたので,部屋の整理等がんばっていたのですね。職場から帰ってくると,寝ていたHが「実家に帰る」と言うのです。「そうだね,まだ一度も帰ってないし,実家でゆっくり休んでくるのもいいかもしれないね」と声をかけると「そうではない」と言う。どういうことかと聞くと「このまま家にいても寝込んでいて何の役にもたたないから実家に帰る」と言うのです。そのとき,何ていったか正確にはおぼえていないのですが,「それはちょっと違うんじゃない」「結婚は病めるときも健やかなときもこれを愛しというよね」「寝込んでいて何もできないから,『役に立たない』とか『ここにいない方がいい』というのは違うと思う」「そんな風にいうのなら実家に帰らないで一緒にいてほしい」などとお話ししたのではないかと思います。
 「何かしてあげられるから自分に価値がある,愛される。今,何もしてあげられないから自分に価値がない,愛されない。」
 結婚生活ってそうじゃないよね。ということを強調したかったのではないかと思います。まじめでいい奥さんだと思うのですが,「何かしてあげなければ…だめ」という力みがあったのです。わかるような気がします。でも,たとえ何もできなくても,何もしてあげられなくても愛し合えるのが夫婦だ。どんなときにも相手が自分を大切に思ってくれる。それを信じることですね。
 「信じる」者の歩みも同じです。「信じることが神のわざ」 イエス様がわたしたちに語ったくださっています。自分に何かができる,神様に何かしてあげられる。だから自分には価値がある,だからイエス様は私たちを愛してくださるのでしょうか。そうではないのですね。何もできない,自分に価値があるとは到底思えない,そんな私をイエス様は愛してくださったのです。そんなわたしたちのために十字架にかかってくださったのです。私たちに命を与えてくださったのです。Hは自分の無力を感じたとき,自分の存在に意味がないと感じました。そのときに,夫からあなたは大切な存在なのだよと語られたのです。自分の無力を感じたそのときこそがイエス様から「あなたは大切な存在なのだよ」と語られるときです。
  イエス様を「信じる」者は,信じていたはずなのにいつも間にか力みの中に入っていく。だから,イエス様は,「神のわざはたった一つ。イエス様を信じること」と語ってくださいます。私たちがイエス様の愛を信じ受け入れることで自分のわざで自分の価値をアピールしようという思いがなくなっていくのです。自分の無力を認めることができるのです。やはり,神のわざは,イエス様をただ信じることただ一つなのですね。
  「行い」によって,義と認められるのではない。私たちを愛してくださるイエス様に心から信頼すること,ゆだねていくいこと,そのことでイエス様が与えようとしてくださる「愛」を,「義」を「永遠の命」を受け取る。イエス様のおすすめは「信じること」ただ一つ。そのことを確認したいと思います。


3 「信じること」と「行い」の関係

(1)「信じること」の中に含まれる「行い」
  はじめに,「神のわざは信じることだだ一つ」についてお話しました。では,全く「行い」は信仰とは関係ないのでしょうか。「ただ信仰のみ」を強調したルターには随分非難が集まったということです。「信仰のみ」はその通りのことなのですが,誤解を生みやすい教理だと思います。
     「信じること」と「行い」は全く関係ないわけではないのです。それを誤解のないように表現するのはとても難しいことです。
  私は,「『信じること』の中にすっぽりと入ってしまう『行い』がある」ということなのではないかと思っています。そして,そのようなことは少なくても3とおりあると思っています。

(2)「信じること」が生み出す「行い」
   はじめの一つは,「信じること」が「行い」を生み出す。ということです。
   また,学校での出来事を例にします。
   学校では,全校朝の会があります。大体は校長先生がお話をするのですが,校長先生が不在のときは,私が何かお話をしなければなりません。その中で,「はじめの一歩」というお話をしたことがあります。紹介します。
   一年生担任の先生が出張のために給食の時間に指導に入ったことがあります。そのとき,ある女の子が,「野菜が食べられないので残していいですか」と聞いてきたので,「一口だけ食べたら残していいよ」と答えました。しばらくして,みたら,その子が「先生,野菜全部食べました」と伝えに来ました。「あれ!一口でいいよといったのにどうしたの」と聞いたら,「一口食べたらおいしかったので全部食べてしまいました」というのです。
  このことから,「いやだなあ」,「やりたくないなあ」と思うことも,「はじめの一歩」踏み出せば2歩目が出せる。給食を食べた一年生もはじめの一口を食べてみたら二口,三口…結局全部食べてしまった。みなさんも「はじめの一歩」を踏み出してみよう。大体,こんなお話です。
   このお話しをしてから,少ししてからのことです。ある三年生の女の子が廊下ですれ違うときに声をかけてきました。「先生,私,先生のお話のとおり,給食のときに,はじめの一口を食べてみたら野菜を全部食べることができました」というのです。「そう,よかったね」と声をかけたら,とてもうれしそうな顔をしました。
   お話をした先生としたら,こういうときのうれしさは何ともいえないものがあります。もちろん,給食のときに野菜を全部食べられたうれしさがあります。でも,それ以上のうれしさがあります。それは,先生の言葉を聞き流さないで実際にやってみてくれたということです。みなさんも「校長先生のお話」というのを聞いたことがあると思いますが,なるほどと思って実行したというのはまれだと思います。それなのに,この女の子は「はじめの一歩」というお話を聞いて,実際にやってみようと思ったのです。
  つまり,お話しした先生と児童の間の信頼関係を感じたからうれしいのです。この児童は,お話しした先生の言葉を聞き,信じました。まず,信じることなしにやってみるという行為にはいきません。「給食を食べられました」「よかったね」というのは信頼関係が結ばれた2人のやりとりです。だからうれしいのです。このことの後,ときどき廊下ですれ違うときに声をかけ少しの会話をします。小さな心と心のつながりを感じるからです。
   信仰も同じではないかと思うのです。イエス様はたくさんのメッセージを残しています。信じるというのは,それを「やってみよう」とすることです。結果がうまくいったとうまくいかないとかということではありません。できたとかできないとかということではありません。できるかできないかといえばイエス様の語ってくださったことはとてもできないことばかりです。私たちに無力を知らせるだけです。
   わたしたちは結果に目を向けがちです。そうではないのです。語ってくださったイエス様を信じる。信頼する。信頼する人のいう通りにやってみる。その信仰をイエス様は喜んで下るのです。そして,イエス様のあわれみの中で,「できるはずのないことができた」そんな奇跡を体験し,一層イエス様との信頼関係を深める。このときの「できるはずのないことができた」それは信仰から生まれた神のわざ,最初にイエス様が否定した複数形のわざではなく「神を信じること」という単数形のわざです。

(3)「はじめの一歩を踏み出す」ことが「信じること」
   「信じること」に含まれる行いの二つ目は,自分の意志で「行う」ことが「信じること」という場合があるということです。
  これも,学校でのある出来事からイメージしてもらえればと思います。
    小学校の2年生の学級を受け持っていたときのことです。時期は冬。冬になるとなわとびの練習がはじまります。体育館で行える体力向上の学習ですね。ある日,体育の授業があり,みんな体育館にいこうとしたときのことです。ある,女の子が「先生,おなかがいたいから体育を休みます」といってきました。そのときは,「そう,大丈夫?」と聞いて休ませました。ところが,次の体育授業の前になったら,また,「先生おなかがいたいから体育を休みます」というのです。
   そこで,わたしは,学級のみんなを同学年の先生にまかせ,2人で教室に残りました。「今日もおなかがいたいんだね」「はい」「もしかしたら,なわとびが嫌いかな。」「…」その子はうつむいて黙っています。「なわとびが嫌いなことは全然恥ずかしいことでも悪いことでもないよ」「先生小学生の時なわとび得意じゃなかったな」「なわとびきらい?」「…」その子は小さくうなずきました。「では,今日,体育をやるかどうかはまかせるよ」「でね。なわとびが嫌いなときは『嫌いだ』と声に出すとすっきりするよ。いってみてごらん」「…」「遠慮はいらないよ,声に出してごらん」するとその子は,「わたしはなわとびが嫌いだ!!!」大きな声でさけんだのです。びっくりしましたが,「うん,それでいいんだよ」「じゃあ,今日はどうする」と聞くと,「単縄は休んで,長縄はやる」といったので,「うん,じゃそうしよう」「一緒に体育館に行こう」といい,2人で体育館に行きました。
   この方法,同学年の先生には「甘い」といわれたのですが,どう思いますか。結果をお知らせします。その子は,その時間は,自分がいったとおり,長縄だけに参加したのですが,次の体育の時間から,何の問題もなかったようになわとびの学習に参加しました。その後,おなかが痛くなることは一度もありませんでした。
   その子は,なわとびがいやでやりたくなかったのです。でも,その気持ちを表に出すことができませんでした。いい子に多いのですね。「いやだ」という自分の本当の気持ちをお話しするとと,どうなってしまうか不安です。そこで,「なわとびは嫌い」という自分の真実にはふたをしました。「おなかが痛い」ということで,(本当に痛くなるのですが),その場を何とか逃げようとしたのですね。
   クリスチャンにも,同じことはないでしょうか。自分の無力と向き合うことができない。そのとき,そんな自分の真実の姿を心の奥にしまい込んでしまい,自分をみようとしない。そして,なすべき行動がとれなくなる。
    キャシャリン・マーシャルが信仰の翼の二つ目は,「自分の無力を知ること」といいました。前にもお話ししましたが人は自分の無力と向き合うことができないのです。向き合わなくてどうするか,ある人は,力みます。自分の力をふるおうとします。また,ある人は,逃避します。向き合うことをやめようとします。今回お話ししているのは,逃避する場合なのです。
  そんなときは,どうしたらよいのでしょう。なわとびの子の場合,その子のいうとおり,体育を休ませていったらどうなるでしょう。不安は一層増大します。一層逃避は大きくなり,やがて,不登校につながる恐れもあります。逃げている限り解決するのはなかなか難しいのです。
   大切なのは,愛をもって受け入れられること,愛をもって語りかけられることです。そして,自分の真実の姿をみつめ,それを言葉にすることです。その子は,まず,「わたしはなわとびが嫌いだ!!!」と大きな声で叫びました。次に長縄から始めるという選択をしました。自分で選択するのも大切です。すると,不安に支配されることなく,逃避することもなく単縄が嫌いということも克服しました。
   クリスチャンも同じです。逃避がはじまったら,逃避のままで解決するのはなかなか困難です。難しいのは,「信仰は行いではない」という教理がこういった「ひきこもり信仰」を増強させることがあるということです。「何もしないのが信仰だ。だから私は何もしない。」そうやって事態を悪くしていくことがあるのです。そんなときどうすればよいのか。まずは,自分の弱さを告白すること。次に前に,子どもたちにお話ししたとおり「はじめの一歩」を踏み出すことです。
   子どもたちに,「はじめの一歩」の話をしましたが,この話のもとになっているのは,ヒルティの幸福論です。ヒルティは,このように書いています。
 
     勤勉な生活習慣を身につけるために,まず肝心なのは「思い切ってやり始めることである」
    「一度ペンをとって最初の一線をひく」「くわを握って一打ちする」それでもう事柄はずっ
    と容易になっている…                    (ヒルティ,「幸福論」P24)
 

   この世の歩みでも有益な言葉です。小学生に語るなら,「はじめの一歩」を踏み出すということになります。
   この「はじめの一歩」は私にとって信仰の言葉として大事にしてきたことです。私は,昔から,自分のからの中に閉じこもって体が動かなくなることがあるのです。特に,自分の中の弱い部分とかかわるときです。自分の弱さと向かい合うことができない。できるならみたくない。そこで,自分の心の奥底に押し込んでしまう。わたしにはそのようなときがあります。
  そのようなときは,まず,はじめの一歩を踏み出す。これが私の信仰だ。と思って動き出すときがあります。
  まず,妻に自分の現状を話します。言語化するのです。そして,つらいのですが,自分の意志で,ふらふらとしながら,一歩前に出て行きます。すると,ことが動き出します。自分の弱さから目をそむけないこと。それをはじめの一歩を踏み出すことで,光の中にでていく。やみの中にとどまらない。それは自分の信仰だと思っています。このことも一歩さえ踏み出せば光の中に足を踏み出せば必ず道は開けると信じているからです。
  このとき,一歩踏み出すこともも信仰から生まれた神のわざ,最初にイエス様が否定した複数形のわざではなく「神を信じること」という単数形のわざです。私はそのように信じています。すべてを導いてくださる神様の愛と力を信じるからこそ「はじめの一歩」を踏み出すことができるからです。

(4)「神のわざ」と自覚しない「信仰の行い」
  「信じること」の中に含まれる「行い」の三番目に,「神のわざと自覚しない信仰の行い」があります。これは,聖書に書かれているので,そのまま読んでみるとわかります。
  マタイによる福音書25章31節から40節

 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです。』すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』 

  解説はいらないのではないでしょうか。
  イエス様を信じて歩んでいたら気づかないうちに運ばれていた。小さな人に良い行いをしていた。イエス様のことが起こっていたというのです。私は何もしていないつもりだけれども,イエス様がしてくださった。しかも,やったことを自分でも気づかない。いつやったかもわからない。
  それは,イエス様や人に義人と認められるために行うわざとは意味が違う。それは,この箇所から,まったく人の力みが感じられないことでわかります。それは,イエス様との信頼ではじまってイエス様への信頼で終わる。自分の働きではない。イエス様の働きを驚きと感謝をもってみていく。そのことがはっきりとされていくといいですね。


4 おわりに

   最後に,ナーウエンの言葉を紹介して終わりたいと思います。ナーウエンは、「静まりから生まれるもの」の中で,信仰の結果について語っています。信仰によって私たちは,「本当のケアをしてくれる友」になれるというのです。わたしたちはこれまで学んできた信仰の歩みによって,ナーウエンの示す姿になっていけるのではないかと思います。

  本当のケアをしてくれる友とは…わたしたちが絶望し,混乱しているとき,黙ってそばに
  いてくれる人であり,愛する人を失った悲しみと喪失のときに,わたしたちとともにいてく
  れる人です。意味を教えててくれなくても,治せなくても,いやせなくても,意味を教えて
  くれなくても私たちの無力と向き合ってくれる人です。たとえ,現実に何かが起ころうとも
  互いに傍らにとどまり,互いに対して真実をもって向き合う…」
                  (ナーウエン,「静まりから生まれるもの」,PP47-49)


   私たちが愛の人になっていく。それは,「信じること」から生まれた力みのない行いです。これは「信じる」ものに与えられた神のわざです。自分でも良いことをしているとは気づかない行いであり,マタイによる福音書25章で読んだ,「わたしの父に祝福された人たち」の姿と重なります。
  まず,自分自身が神様を信じるものになりたい。何度もずれて,何度も立ち返るという歩みの中で,私を愛してくださるイエス様を受け入れ,自分の無力と向き合っていく者になりたい。そのような者は,人を拒絶することなくその人にとどまり,その人の無力と向き合うものになっていける。このことも信仰をもって受け取っていきたい。そのことで,愛の人となり,神様の証人になれるのです。
  イエスは彼らに答えて言われた。「神がつかわされた者を信じることが,神のわざである」
  ただ,イエス様を信じて歩むものになりたいと願います。

                                       

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