2013年4月7日日曜日

「一匹の蚤」の信仰~ダビデから学ぶ~  Ⅰサムエル24章1節から16節


 私の教会では、信徒訓練の一つとして、平信徒がメッセージをする。私も一年に一回のペースでメッセージをしている。今回は平成23年8月28日にお話したメッセージを掲載する。
 「一匹の蚤」このブログのタイトルは、このメッセージからつけた。
 聖書は、Ⅰサムエル24章1節から16節


1 はじめに  

(1)サウルにねたまれ追われるダビデ
  今日は、サムエル記から、ダビデの信仰を学びたいと思います。
 ダビデの時代は今から3,000年も前にイスラエルの地で羊飼いの子として生まれます。ダビデは、神とともに歩む人でした。竪琴の名手であり、イスラエルの初代王サウルの精神的な病を癒やす役割を与えられます。それも、神様がダビデとともにいて下さり、神様の平安が音楽として表現されたものでありました。
 ダビデの竪琴はサウルの心を癒やしました。サウルはダビデを非常に愛しました。ところが、
2節に、

   サウルは、イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いて、エエリムの岩の東に、ダビ
  デとその部下を捜しに出かけた。

とあります。サウルは、殺すためにダビデを追いかけるようになりました。なぜでしょう。
  サウルが王であった時代、イスラエルを悩ましていたのは、ペリシテ人たちです。ペリシテはサウルが王である時代最後まで強力な敵でした。
  ダビデは、サウル王のもとでペリシテ人と戦います。神とともに歩む人ダビデは、戦いでも優れた力を発揮します。それなら、いいことづくしでなんの問題もないように思えます。イスラエルの人々もダビデの働きをたたえました。ところが、このときの民衆の歌がサウルの心を大きく変えました。Ⅰサムエル記18章7節をお読みします。

   女たちは、笑いながら、くり返してこう歌った。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打っ
  た。」

  ねたみです。サウルの千に対してダビデは万。王であるサウルよりもダビデの方が称賛されることに対するねたみです。サウルは、王である自分よりもダビデがたたえられることがおもしろくなかったのです。さらに、ダビデがさらに戦いで大きな成果を上げるのを見て、サウルはダビデに恐れを感じるようになります。
   ねたみと恐れにより、サウルはダビデの命を狙うようになりました。2節に、「イスラエル全体から三千人の精鋭をえり抜いてダビデとその部下を捜しに出かけた。」とありますが、ダビデ一人に三千人の精鋭を集めなければならないほど、サウルはダビデの恐れていたのだと思います。

(2)サウルを殺すチャンスを捨てたダビデ
 ダビデは、サウルの手からひたすら逃げます。そして、不思議な導きで守られていきます。やがて、ダビデに、サウルを倒すチャンスがおとずれます。それが、今日の御言葉の場所です。3節をお読みします。


   彼が、道ばたの羊の群れの囲い場に来たとき、そこにほら穴があったので、サウルは用を足すためにその中に入った。そのとき、ダビデとその部下は、そのほら穴の奥のほうにすわっていた。ダビデの部下はダビデに言った。「今こそ、【主】があなたに、『見よ。わたはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたのよいと思うようにせよ』と言われた、その時です。」そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。

   ダビデが洞穴に隠れていたとき、ちょうど、サウルもその洞穴のところにやってきました。そのとき、サウルは用をもよおしました。そして、その洞穴の中には入って用を足すそうとしたのです。光の関係で、ダビデからサウルのことはよく見えました。ところが、サウルからは洞穴の奥まで光が届かない、つまり、真っ暗にしか見えませんでした。ダビデの側からすると絶好のチャンス。なんの抵抗もなく、サウルを殺すことが可能となりました。ダビデの部下は今こそサウルを倒すチャンスだといいます。ところが、ダビデは、「サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。」ということしかしないのです。ダビデは部下を説き伏せ、彼らがサウルに襲いかかるのを許しませんでした。
  ダビデには全く非はありませんでした。ところが、そのダビデの命ををねらうサウルです。どう考えても非はサウルにありました。このようなチャンスにサウルがダビデに殺されることがあってもおかしくないと思います。しかし、ダビデは、サウルを殺しませんでした。ダビデはサウルから命を狙われる身です。サウルを倒さないとダビデはいつまでも命を狙われます。それなのに、なぜ、ダビデはこのチャンスにサウルを殺さなかったのでしょうか。それが、今日の大きなテーマです。
  私は、聖書に書かれているダビデの言動から、ダビデがサウルを倒さなかった理由を3つ読み取れると思います。そして、この3つの理由から私たちはダビデの信仰のすばらしさを学ぶことができると思います。ダビデが私たちの信仰の模範となって下さっていることがわかります。今日は、ダビデがサウルを殺すチャンスが与えられたのに、そのチャンスを生かさなかった3つの理由とそこから教えられるダビデの信仰について学びます。


2 ダビデがサウルを倒さなかった理由1「神様が油そそがれた者を尊ぶ」 

 ダビデがサウルを倒さなかった理由の一つは、6節から読み取ることができます。

   「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことを
  して、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。彼は【主】に油そそがれた方だ
  から。」

    「油そそぐ」というのは王や祭司の即位の際、油を頭にかけるという儀式です。サウルは、神様がお選びになり、神様が王として定めました。サウル王は、主によって油注がれ、主によって立てられたイスラエル第1代の王です。ダビデにとっては王との関係はどこまでも主との関係でした。例え今は、神の御旨から離れて、悪例のとりこになっているような存在であっても神様が油を注いで王として立てた者。ダビデにとってサウルに逆らうことは、神様に逆らうことだったのです。サウルに手を下すころは神様に手を下すことであるとダビデには思われたのです。神様を第一とするダビデの姿をここにみることができます。
  これは、神様への深い信頼がなければできないことだと思います。神様が油そそがれたサウルは、神様の御心にそむきました。そして、ダビデをねたみ、ダビデを恐れ、その命を狙いました。どうして、神様はそのようなサウルをそのままにしておくのか。どうして、ダビデが逃げ回らなければならないのか。そもそも、そのようなサウルをどうして神様は選んだのか。今の私たちが考えても理解できないことがたくさんあります。当事者であったダビデにとってはなおさらのことでしょう。立派な人なら、王様としてとしてふさわしい人なら、神様が油そそがれた者として尊敬できます。でも、それとは真反対のものだとしても、しかも理不尽にも自分の命を狙う者だとしても、神様が油そそがれた者は、油そそがれた者です。その理由は、神様の御手の中にあります。だから、敬い、従って行く。手を下すなど絶対にできません。それは、人に対する信頼ではありません。神様に信頼するものとしての判断であり、行動なのです。
  神様がお決めになった秩序に対して従うことは、神様に従うことなのです。それがたとえ理不尽なことであったも人ではない、神様に従って行くという気持ちで人に従って行く。それが神様の御心です。それが、本当に神様を恐れる者、真に神様を神様として崇める者のあるべき姿です。
  だから、6節で、「私が、主に逆らって、【主】に油そそがれた方、私の主君に対して、そのようなことをして、手を下すなど、【主】の前に絶対にできないことだ。」とダビデはその家来を説得しました。「神様が油そそがれた者を尊ぶ」それが、ダビデがサウルを倒さなかった理由の一つです。私たちは、このダビデの信仰から学びたいと思います。
  ロマ13章1、2節をお読みします。

   人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威は
  すべて、神によって立られたものです。したがって、権威に逆らっている人は、神の定めに
  そむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

  「人はみな、上に立つ権威に従うべきです」まさに、ダビデはこの御言葉を実行した人です。
 でも、私たちは、こんなことが本当にできるでしょうか。この世の中には、理不尽なこと、不合理なことがあまりにもたくさんあります。どうして、あの人が上の立場に立っているのか。あの人が上の立場に立っているから、私はこんなにも苦しい思いをしなければならない。というこ
とがあまりにも多いのではないかと思います。
 でも、神様の事実は、大きな流れの中で見て行くと、この御言葉が真実であることを示しています。サウルはやがて戦いに敗れ死んで行きます。そして、ダビデは自分が手を下さなくても王になるのです。その後、ダビデの息子であるアブシャロムは、ダビデ王という権威に従おうとせず、ダビデを殺し、自分が王になろうとします。しかし、アブシャロムは戦いに敗れ死んで行きます。まさに、そむいたアブシャロムは自分の身にさばきを招いたのです。神様の真実は、神様の歴史が確実に証明しているのです。
  御言葉には力があります。私は、自分の歩みの中で、ダビデが、サウルに従うことで神様に従ったということを何度も心の中で反芻したことがあります。「神様がお決めになった、秩序に対して従うことは、神様に従うことなのだ」そこに、神様の真実がある。みこころがある。「人はみな上に立つ権威に従うべきなのだ」。何度も、何度も朝、職場に向かうときの車の中で反芻するのです。もし、この御言葉がなければ、今頃、所属長と大げんかしていたかもしれません。この御言葉で、私自身が守られてきたのではないかと思います。この御言葉で理不尽な、納得できないこの世の中を神様に従うという信仰をもって生き抜く力を御言葉が与えて下さるのです。ダ
ビデも、このとき、神様に従う力を神様によって与えられたからこのような私たちの模範となる
姿をみせることができたのだと思います。
  さて、4節後半から5節をお読みいたします。

   そこでダビデは立ち上がり、サウルの上着のすそを、こっそり切り取った。こうして後、
  ダビデは、サウルの上着のすそを切り取ったことについて心を痛めた。

 ダビデは、サウルを倒すことはありませんでしたが、サウルの上着のすそをこっそり切り取りました。ダビデは、そのことに心をいためました。ダビデは、自らが切った上着のすそサウルに見せることによって、自分がサウルを倒す気持ちががないことを証明しようとしました。でも、ダビデは、上着のすそを切ることも失敗であった、罪であった、というのです。
 上着のすそ切り取ることは、私たちから見ると小さなことです。でも、ダビデは、「上着のすそを切るということも王の権威を傷つけることであった」と考えたのだと思います。ダビデにとって、上着のすそを切ることさえも、サウルの王としての尊厳を傷つける事であり、「神様が油そそがれた者を尊ぶ」という自らの信仰に反することだったのです。
 私は、ここにも、ダビデの信仰のすばらしさをみることができると思います。「上着のすそを切る」という小さなことも「神様が油そそがれた者を尊ぶ」ことからから外れた行為であった心を痛め、神様の前にでていき、悔い改めること。神様の前に、小さな罪を罪と感じることのできる感性、それは、本当に神様を主として、心から神様に従うからこそもつことができます。「神様が油そそがれた者を尊ぶ」ダビデのの信仰は私たちの信仰の模範です。 
 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。」という御言葉は人間の力では決して行えるものではありません。私も、私自身の歩みをふりかってみるとき、「私の歩みは不完全であった。私は、上に立つ権威に従いきることはできなかった。」と告白せざるをえません。これもまた真実な自分の姿です。それでも、私は、その姿のまま、正直に神様の前に出るしかありません。ありのままで祈る。そして、御言葉によって、行動して行く。そのとき、私たちに神様のことが起こる。そう信じたいと思います。


3 ダビデがサウルを倒さなかった理由2「さばきの一切を主に委ねる」 
 
ダビデがサウルを倒さなかった理由の二つ目を聖書から見て行きます。
 まず、サウロが洞穴から出てきた後のダビデの言動について8節から11節をお読みします。

   その後、ダビデもほら穴から出て行き、サウルのうしろから呼びかけ、「王よ」と言った。
  サウルがうしろを振り向くと、ダビデは地にひれ伏して、礼をした。そしてダビデはサウル
  に言った。「あなたはなぜ、『ダビデがあなたに害を加えようとしている』と言う人のうわさ
  を信じられるのですか。実はきょう、いましがた、【主】があのほら穴で私の手にあなたを
  お渡しになったのを、あなたはご覧になったのです。ある者はあなたを殺そうと言ったので
  すが、私は、あなたを思って、『私の主君に手を下すまい。あの方は【主】に油そそがれた
  方だから』と申しました。わが父よ。どうか、私の手にあるあなたの上着のすそをよくご覧
  下さい。私はあなたの上着のすそを切り取りましたが、あなたを殺しはしませんでした。そ
  れによって私に悪いこともそむきの罪もないことを、確かに認めて下さい。私はあなたに罪
  を犯さなかったのに、あなたは私の命を取ろうとつけねらっておられます。

 ダビデは、サウルが穴から出て行くと自らもサウルの前に姿を現わします。そして、上着のすそを見せ、自らがサウルに対してそむきの罪が一切ないことを訴えます。
 さらに、12節と15節で次のように訴えるのです。

  どうか、【主】が、私とあなたの間をさばき、【主】が私の仇を、あなたに報いられますように。私はあなたを手にかけることはしません。
  どうか【主】が、さばき人となり、私とあなたの間をさばき、私の訴えを取り上げて、これを弁護し、正しいさばきであなたの手から私を救って下さいますように」

 このダビデの言葉の中に、ダビデがサウルを倒さなかった2番目の理由を見ることができます。ダビデは、サウルに必死に訴える中で、「人をさばくことのできるのは主だけだ」ということを語ります。「人をさばくことのできるのは主だけだ。」だから、自分がサウルをさばき、サウルを手にかけることはできない。ダビデには、「さばき」ということに関して、主に対する深い信仰があったということなのです。ダビデは「さばき」をすべて主に委ねていたのです。
 ローマ人への手紙12章1節以下に言われていることをダビデは実行していました。

   だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りない。あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。

  ダビデのサウルに対する態度はこの御言葉のとおりでした。さばきの神様に一切を委ねています。例え、上に立られた権威であったも、理不尽なことは理不尽なこと、不合理なことは不合理なこと。間違いはどこまでいっても間違いです。でも、これをさばくのは自分ではない。自分の手でさばこうとしたら、当然、ダビデはサウルの首をはねていました。しかし、ダビデはさばきの一切を主に委ねていました。
 ダビデにとって、主は、すべてであったからです。ダビデにとって主が一切の一切だったからです。
 ダビデは、「さばきの一切を主に委ねた」。だから、自分で手を下すということをしなかった。これがダビデがサウルを倒さなかった2つ目の理由です。さらにいえば、自分のさばきもまた主に委ねていました。ダビデが自分の命をねらうサウルの前に飛び出していったのは、自分をさばいてくださる主に一切を委ねていたからでしょう。このダビデの信仰も私たちの模範です。
  しかし、ローマ人への手紙の実行も私には不可能にみえます。「さばき」は神様の領域です。これを私たちが行うことは、私たちが神様の領域に足を踏み入れたことになります。でも、神様の領域に恐れもなく足を踏み入れてしまおうとするのが私たちです。どうしてもさばいてしまう、裁き合ってしまうのが私たちの実体です。自分がさばき主になって自分は正しいと自分を義としようとします。そのような思いから抜け出すことができない。本当のことを言って、この御言葉の前に立ちすくむしかないのが私たちではないでしょうか。
 そのような私には、困難な中にあって、ただ神様に向かうダビデの祈りは、また驚きです。
  詩篇35編 全部読みたいのですが、長いので1節から6節までお読みします。

  【主】よ。私と争う者と争い、私と戦う者と戦って下さい。
  盾と大盾とを手に取って、私を助けに、立ち上がって下さい。
  槍を抜き、私に追い迫る者を封じて下さい。私のたましいに言って下さい。「わたしがあな
  たの救いだ」と。

  神様はダビデのすべての訴えを聞いて下さる方。そう信じるダビデは、自分の真実を神様に訴えます。ダビデの命を狙うものが大勢いる中で、死と直面したどうしようもない困難なまっただ中で、ただ神に向かっています。率直に自分の思いを神様にうったえています。このとき、ダビデは、神様と一つです。わたしの敵は神の敵、だから神様、私の敵に戦うのはあなたです。と言い切っています。
 ダビデは自分を義としているわけではありません。神様の前に何もできない者として空っぽになってただ、神様の前にむなしくなっているからこそ戦いのすべてを神様に委ねているのです。だから、戦うのは神様でありダビデではありません。ダビデはただ、神様に「戦って下さい」「立ち上がって下さい」「封じて下さい」と願うのみです。一切の戦いを神様に委ねることができたのです。
 さらに、24節では、

  あなたの義にしたがって、私を弁護して下さい。わが神、【主】よ。彼らを私のことで喜ば
  せないで下さい。

 「あなたの義にしたがって、私を弁護して下さい。」とあるように、弁護するのもダビデではありません。一切が主のこと。主に委ねることなのです。
 ダビデはただ、すべてを成し遂げて下さる神様を賛美することでした。だから、最後の28節、に、


  私の舌はあなたの義とあなたの誉れを日夜、口ずさむことでしょう。

と語っています。
 詩篇35編のように、神様に言い切れる、神様と一つになれる、敵に戦うことも、神様にさばきのすべてを委ねきれる。だから、ダビデは自分の手でサウルを倒しませんでした。サウルに対するさばきは、わたしのすべてである神様にすべて委ねたのです。
 ダビデの祈りを、なかなか自分の祈りとすることができないのははぜでしょうか。それは、私が中途半端な祈りをしているからだと思わされます。「相手にもいいところがあります、自分にもいいところがあります。」そんな祈りもどこか自分の正しさにより頼んでいます。どこかに、自分のさばきが入っています。神様に向かって祈るならまだいいのですが、「あの人はどうしてこんなことをするのだろう。」「あの人は間違っている。」と、ただ、人に向かってつぶやいていく。そんなことをしているから突き抜けられないのです。だから神様の一つになれないのです。
 神様にすべてを申し上げ、戦うことも、さばきも、すべてを神様に委ねていく。このダビデの信仰を私たちの信仰の模範としたいと心から思います。


4 ダビデがサウルを倒さなかった理由3「自分を死んだ犬、一匹の蚤とする信仰をもつ」 
 
ダビデがサウルを倒さなかった理由の3つめは14節にあります。

   イスラエルの王はだれを追って出て来られたのですか。あなたはだれを追いかけておらv  れるのですか。それは死んだ犬のあとを追い、一匹の蚤を追っておられるのにすぎません。

  ダビデは自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」です。と告白しました。 自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」とする信仰をもつこと。これが、ダビデがサウルを倒さなかった理由だと思うのです。
 ある注解書をみたら、「ダビデは、サウルからみれば『死んだ犬』『一匹の蚤』にすぎないとダビデが語った」と書いています。確かに、全然王に逆らわず、手向かいません。されるまま。そしてただ逃げるだけ。だから死んだ犬のようなものです。あるいはひねりつぶされそうになって逃げる一匹の蚤のようなものです。サウル王に対してなんの力もありません。
 私は、それだけではないと思います。ここまで見てきたとおり、この章では、ダビデのサウルの前での、サウルに対する行動が問われていますが、ダビデは神様の前に立ち、神様の前で行動しているからです。ダビデは、ここで神様の前に『死んだ犬』であり『一匹の蚤』である自分を告白しているのです。犬はユダヤにおきましては大変軽蔑されていた生き物でした。それが「死んだ犬」と言いいます。さらに「一匹の蚤」、謙遜のきわみです。
 ダビデは主を仰いだとき、本当に自分には何もないと思っていました。それは、神様に対する全幅の信頼と一つのことです。神様の前に立ち、神様の前の自分を見るとき、自分は「死んだ犬」「一匹の蚤」としか思えません。そして、自分は「死んだ犬」「一匹の蚤」と思うとただただ神様に頼るしかありません。すべてを上げてより頼むしかないと思えてきます。真の信仰はこのような主の前の貧しい姿から現れて行くのです。
 サウル王は、このダビデとは、反対の方向に歩みました。サウル王も最初は心低く神様の前にありました。だから、神様の霊は彼の上にとどまっていました。けれども、サウルは王になって思い上がりに心が占められていきました。そのとき、神様の霊が彼を去り、最初にお話ししたようにダビデの琴によって慰められなければならないほど心が病んでいきました。ダビデを殺そうとしたのも自分よりも称賛されるダビデに自分のプライドが傷つけられたからです。自分は高くありたい、自分は高い存在であるはずだ。その思いを傷つけるダビデの存在が許せなかったのです。
 第1ペテロ5章5節に

   同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。
  神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。

 とあります。
 神様は、へりくだる者に恵みをお与えになります。このへりくだりは、サウルのものではありません。自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」とするダビデのものでした。
 私たちは、どちらの方向にあゆんでいるのでしょうか。サウルのような高ぶる方向、自分のプライドを守っていこうとする方向でしょうか。サウルのような、プライドを守ろうとする人に対して、やはり自分のプライドを守ろうとしてぶつかり合うということもあります。自分がいかにいいものであるかを主張しあう、そのような中で大きなトラブルに巻き込まれていくということが現実のわたしたちではないかと思います。
 ダビデは、高ぶる方向ではなく「死んだ犬」「一匹の蚤」として歩みました。だから、サウルとぶつかりませんでした。サウルがダビデを殺そうとして追いかければひたすら逃げました。そのようなダビデだから、サウルを倒すことのできるチャンスがきても、サウルを倒すことはしませんでした。サウルの前に、神様の前に、「死んだ犬」「一匹の蚤」であり続けたのです。へりくだる者であり続けたのです。
 ダビデがサウルの倒さなかった3つめの理由、それは、「自分を死んだ犬、一匹の蚤とする信仰をもつ」ことでした
 私たちにとって慕わしいのは、この心の低さです。へりくだる者になることです。避けたいのは高ぶる心です。でも私たちは高ぶりたい者です。自分のプライドを捨てることのできない者です。そのような私たちにとって、ダビデの姿は模範です。どうか、ダビデの心低さを私にも与えて下さい。自分が神様の前に、「死んだ犬」「一匹の蚤」であることを認める者として下さい。そして、その心低さが、サウルに対するダビデのように、人との関わりの中でもあられていく者として下さい。と心から祈るものです。   


5 終わりに 

  ここまで学んできたことをまとめたいと思います。
 今日は、せっかくダビデに与えられたチャンス、「自分の命をねらうサウル王を倒す」ということを、ダビデが行わなかった理由をみてきました。そして、そこから、ダビデの信仰を学んできました。
 ダビデの家来に、「サウルを殺すチャンスです」といわれたとき、ダビデが家来を説得した理由は、理由1で学びました「神様が油そそがれた者を尊ぶ」ということでした。だから、なぜチャンスを生かさなかったのですかと問われれば、「神様が油そそがれた者を尊ぶこと」で主に従おうとしたからだというのが一番最初に出てくる答えだと思います。
 さらに、ダビデがサウル王に対して自分にはなんの殺意がないことを訴える中で思わず出てきた言葉「【主】が、私とあなたの間をさばき、…」という言葉から、ダビデが「さばきの一切を神様に委ねていたこと」も、自分から手をくださなかった二つ目理由であることをを学びました。神様にすべてを申し上げ、戦うことも、さばきも、すべてを神様に委ねていくことは、ダビデの信仰の基本的な姿勢だったのだと思います。
 私は、この2つの理由を根底から支えるものが、三つめの理由として学びました「自分を死んだ犬、一匹の蚤とする信仰をもつ」であったと思います。ダビデの中にあるのは、自分を無に等しき者としていく実に低いへりくだった心でした。「死んだ犬」「一匹の蚤」です。なんの価値のない存在です。だから、ダビデは、「上に立つ権威に従う」ことができたのです。「さばきを一切主にゆだねる」ことができたのです。
 理由1「神様が油そそがれた者を尊ぶ」、理由2「さばきを一切主にゆだねる」の学びの中で、で、私はなかなかダビデのようにできないとお話ししました。ダビデと私とでは何が違うのでしょう。この心の低さです。自分を義としようとする心、自分の中に正しさがあります。「自分は間違っていない。」「相手に非がある」などという心があるから、上に立つ権威に従うことができません。さばきを一切主にゆだねることができません。「死んだ犬」「一匹の蚤」になりきること、心を低くして主の前に出て行く。これこそがダビデがサウルを倒さなかった一番大きな理由なのです。私たちが一番模範としたい、私たちが一番慕わしい信仰の姿、それは「死んだ犬」「一匹の蚤」になりきることです。それが信仰の模範とも言えるダビデの姿の原点でした。
 最後に、「一匹の蚤」についてもう少し考えたいと思います。「一匹の蚤」は0に近い存在という以上に悪いものではないかと思います。人にとって害になるもの。マイナスの存在です。私は「一匹の蚤」です。と告白するということは、自分は人に害を及ぼす存在なんだ。マイナスの存在なんだ。ということを認めることなのです。
 そうやって主に寄りすがって行く者、それは、蚤だから、マイナスだからイエス様の血をすって行くイエス様の血に寄りすがって行くもの、主の命にすがって行くものではないでしょうか。 「私に必要なのは、ただ、イエス様の十字架の血潮です。」「私はイエス様の血をいただく一匹の蚤です」そう告白して行くものなりたいと思います。

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