(ヨハネ6章17節~20節)
ヨハネ6章前半では、イエス様が5000人を5つのパンで2匹の魚で養われた記事がある。このことで、人々は、イエス様を王にしようとするが、それは、イエス様を神の子救い主として崇めるためではなく、イエス様を利用し、自分たちの思いを実現させるためであった。
自分の思いを実現させることを願い、イエス様を主とすることができない。
これが私たちの姿だ。
弟子たちも同じ。
その弟子たちは、歩み出す。しかし、
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
嵐の中に入っていくのだ。
自分を主として歩み出す者もやがて嵐に遭遇する。
自分を主としていては、
自分を主としていては、
自分の力では、
自分の知恵、知識、判断では、
どうすることもできないように思える大きな波、風
自分の知恵、知識、判断では、
どうすることもできないように思える大きな波、風
自分を主とし、自分の判断を先立てる者は
イエス様をイエス様とは思えないぐらいにぶっている。
ただただ恐怖でいっぱいになる。
すべてのものが自分を襲ってくるようにみえる。
しかし、その場所で、イエス様は、ご自分を示される。
ただただ恐怖でいっぱいになる。
すべてのものが自分を襲ってくるようにみえる。
しかし、その場所で、イエス様は、ご自分を示される。
「わたしだ。恐れることはない。」
その声、その姿。神様の権威があった。
そして、神の愛があった。
「恐れることはない。」
もう大丈夫だ。安心しなさい と。
吹きまくる強風の中、イエス様を見間違う弟子たちに
はっきりとご自分を示されたイエス様。
改めてイエス様が神様であることを実感したに違いない。
そのとき、
自分を主とする心が消える。
自分の力では、自分の知恵、知識、判断にたよる心が消える。
そして、本当の意味でイエス様が私たちの主となる。
イエス様を自分の主として自分に迎える。
「わたしだ。恐れることはない。」
私たちも、イエス様の声を聞こう。
イエス様に出会おう。
自分にとらわれてどうしようもないその場所で、
嵐のように揺れ動いている場所で、
そのとき、私たちもイエス様を主として迎える。
今までとは違う、新しい歩みがはじまる。
その声、その姿。神様の権威があった。
そして、神の愛があった。
「恐れることはない。」
もう大丈夫だ。安心しなさい と。
吹きまくる強風の中、イエス様を見間違う弟子たちに
はっきりとご自分を示されたイエス様。
改めてイエス様が神様であることを実感したに違いない。
そのとき、
自分を主とする心が消える。
自分の力では、自分の知恵、知識、判断にたよる心が消える。
そして、本当の意味でイエス様が私たちの主となる。
イエス様を自分の主として自分に迎える。
「わたしだ。恐れることはない。」
私たちも、イエス様の声を聞こう。
イエス様に出会おう。
自分にとらわれてどうしようもないその場所で、
嵐のように揺れ動いている場所で、
そのとき、私たちもイエス様を主として迎える。
今までとは違う、新しい歩みがはじまる。
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