2013年2月3日日曜日

自分を主としてしまう私へ② ~ヨハネ6章17節~20節

そして、舟に乗り込み、カペナウムのほうへ湖を渡っていた。すでに暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところに来ておられなかった。湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。こうして、四、五キロメートルほどこぎ出したころ、彼らは、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、恐れた。しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」
                                    (ヨハネ6章17節~20節)

ヨハネ6章前半では、イエス様が5000人を5つのパンで2匹の魚で養われた記事がある。このことで、人々は、イエス様を王にしようとするが、それは、イエス様を神の子救い主として崇めるためではなく、イエス様を利用し、自分たちの思いを実現させるためであった。

自分の思いを実現させることを願い、イエス様を主とすることができない。
これが私たちの姿だ。
弟子たちも同じ。

その弟子たちは、歩み出す。しかし、
湖は吹きまくる強風に荒れ始めた。
嵐の中に入っていくのだ。

自分を主として歩み出す者もやがて嵐に遭遇する。
自分を主としていては、
自分の力では、
自分の知恵、知識、判断では、
どうすることもできないように思える大きな波、風

自分を主とし、自分の判断を先立てる者は
イエス様をイエス様とは思えないぐらいにぶっている。
ただただ恐怖でいっぱいになる。
すべてのものが自分を襲ってくるようにみえる。

しかし、その場所で、イエス様は、ご自分を示される。

「わたしだ。恐れることはない。」

その声、その姿。神様の権威があった。
そして、神の愛があった。
「恐れることはない。」
もう大丈夫だ。安心しなさい と。

吹きまくる強風の中、イエス様を見間違う弟子たちに
はっきりとご自分を示されたイエス様。


改めてイエス様が神様であることを実感したに違いない。
そのとき、
自分を主とする心が消える。
自分の力では、自分の知恵、知識、判断にたよる心が消える。
そして、本当の意味でイエス様が私たちの主となる。
イエス様を自分の主として自分に迎える。


「わたしだ。恐れることはない。」
私たちも、イエス様の声を聞こう。
イエス様に出会おう。
自分にとらわれてどうしようもないその場所で、
嵐のように揺れ動いている場所で、

そのとき、私たちもイエス様を主として迎える。
今までとは違う、新しい歩みがはじまる。

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