2013年2月23日土曜日

世の光として輝くことは、すべて信仰による マタイ5章16節

このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5章16節)


あなたがたは、世界の光です。(マタイ5章14節)
で始まる。

世の光です。と言い切っている。
世の光になりなさい。とはいっていない。
私たちが、弱い者でも、罪ある者でも。
イエス様は私たちを「世の光」とみて下さるのだ。
イエス様が太陽、私たちが月というたとえのとおり、
光るのはイエス様。私たちは、イエス様の光をそのまま受けて光る。
イエス様の光によって、私たちは、世の光になることができる。


続けて、イエス様は、
あなたがたの光を人々の前で輝かせ、
と語る。

あなた方は、すでに光っているのだから、隠さずに人々の前に出て行きなさい。
とおっしゃっている。
自分の弱さや罪で後ずさりするな。出て行きなさい。
あなた方は、すでに輝いているのだから。
そうイエス様は私たちに語りかけているのだ。


人々があなたがたの良い行いを見て、
ここでいう「良い行い」とは、その人の立派な働きではない。
もし、その人の立派さだったら、人々があがめるのは、その人だ。
その人のがんばりではない。その人のがんばりなら、
がんばりその人が「がんばったね」と褒められるはず。

では、「良い行い」とはどんな行いか。
イエス様の光を受けているなら、その人の一つ一つの行動すべてが
「良い行い」だ。

食事をするのも
歌を歌うのも
仕事をするのも
勉強をするのも

イエス様の愛をいっぱいに受け、イエス様の許しを100%いただき、
愛されている者という歩む、すべての行動。
その一つ一つは、輝いている。
すべてがよい行いなのだ。

よい行いをしようと力んではいけない。
良い行いをみせようとがんばってはいけない。
イエス様に愛されているものとして、イエス様に許されている者として
歩むこと
そのすべてが「よい行い」なのだ。
人々は、許され、愛され、イエス様の光をたっぷりと受けている
その人の姿、行いを見て、


天におられるあなたがたの父をあがめる

ようになる。
すべては、イエス様がなしてくださること。
そう信じて歩み出すことが大切だ。


しかし、私たちは、自分からイエス様の光からはずれて暗闇に入ろうとする傾向がある。
世の光として輝くはずなのに。

人を裁きイエス様の愛をうけとらなかったり。
この世にひかれて、情欲を満たそうとしたり。
自分で輝こうとして力んだり、がんばったり。
自分はダメなものだ、ひきこもったり。
失敗したとき、自分をかばったり。

自分で光と反対の方向に歩み出そうとする。


けれども、そんな私をイエス様は、

世界の光です。

と呼んで下さる。
暗闇に入ろうとする私に、イエス様がなお光を当てて下さる。

私はただ、光であるイエス様の前にでていく。
それが悔い改め。
イエス様の光を受けて歩み出す。
それが「良い行い」。
そしてそれが信仰。




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