さばきつかさが治めていたころ、この地にききんがあった。それで、ユダのベツレヘムの人が妻とふたりの息子を連れてモアブの野へ行き、そこに滞在することにした。
(ルツ記1章1節)
エリメレクとその妻ナオミは、ききんから身を守るために異邦の地モアブに移り住んだ。
バックストン先生は、これは「堕落の話」という。(ルッ記霊解)
ところが、別な注解書には
「聖書には信仰によるとも不信仰によるとも書いていない」とあった。
どのように受け取ればよいのだろう。
私はしばらくの間、調べたり黙想したりした。
そうしているうちに、
モアブに移り住んだエリメレクとその妻ナオミは信仰によったか、不信仰だったか
と追求することに危なさを感じてきた。
私は、エリメレクとその妻ナオミの歩みを冷たい目で見ていないか。
そう思われたのだ。
モアブに移り住んだ結末は、エリメレクと2人の息子の死であった。
ナオミはどれだけ悲しんだことだろう。
しかし、神様は、出ていった先、モアブで息子の妻ルツを与えて下さった。
そして、神様はルツを通して、大きな恵みを与えて下さった。
神様はナオミを最後は祝福の中に入れて下さった。
神様はナオミを愛してくださったのだ。
ナオミはどれだけ神様に感謝したことだろう。
私は、人の行動が信仰か、不信仰かという目で見すぎて
誤りを犯すことはないかと思えてきた。
その人の選択が信仰か、不信仰かと追求していくと、
「その人自身を愛する」ことから遠ざかってしまう危うさがあるのだ。
もちろん、明らかに誤りであるとき、
聖書にあるように、愛をもって正すこともある。
でも、その人の歩みの一切が神様のご計画の中にあることを信じて、
神様に委ねることも「信仰」だ。
その人が神様の祝福の中を歩めるように
祈り続けながら。
信仰か、不信仰かという問いは、
うるかすことにした。
0 件のコメント:
コメントを投稿