2014年1月3日金曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (3)愛を追い求める歩み~ジョージハーバードの詩より~

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
愛を追い求めること(0)(1)でどういうことかを書いた。
愛を追い求めること(3)でその誤りを紹介した。
(3)では、(0)(1)のように歩んだ人ジョージハーバードの詩を紹介する。

文語なので、わかりにくい。長い。わかりにくい。
例としてはふさわしくないかもしれないが、
引用する。


みじめなる者

神よ、天使に汝の御名を讃えしめよ。
人は愚かなる、愚かなる者。
愚行と罪は彼の業。
彼は己が家の燃えおるに歌を歌う。
人は草にすぎず、人はそれを知る。
しかるに杯を挙げる。

いかにして汝、彼の愚を耐えた給うや。
彼はその杯を汝の故に失うことを惜しむ。
彼を制し、彼の傲慢に怒り給え。
彼はあらたむること能わぬ者、
畏を以て汝に仕うること能わぬ者なり。

何たる穢れを彼は身にまとうか、
己のみ知者と心得るかの如く。
汝の全き義と全知を
彼に知らしめ得る者一人だに無し。

人は汝に逆らい、
汝に仕うるを放棄せり。されど汝の御愛、彼を引き寄せ、
汝の慈しみの翼にて彼の愚行の染みを掩い給う。
背きし者をこらしめ給うこともなく。

わが神よ、
人は汝の御名を讃えうるを得じ。
汝は全き光、全き潔さ。
太陽も汝の御前にその光を失う。
汝の聖なることいかにして穢れたる者は知るを得ん。

人は汝に仕えるを得じ。
彼を去らしめて豚に仕えしめよ。
そこにそこ彼にふさわしき歓びあらん。
彼は汝の潔さえお好まず。
彼にふさわしき泥を与え、夜じゅうその中にて転がしめよ。

ああ愚かなる人よ、
そなたの眼いずこにあるや。
思い煩いの群がりの中にて失いしか。
ぼろをまといては天に至るを得じ。

(略)

人は曽はよき者なりき。
宝の手箱、くすしきものの器。
その花束、汝の喜びなりき。
パラダイスの園の栄えと恵み
彼の心と姿をきあざりてありき。

しかるに、罪彼をあざむけり。
人は天上の光のかすかなる一抹にすら至りうる足も翼もなき肉のかたまり。
そこここと、自我の暗礁にぶつかりてさ迷える病める舟なり。

否、彼にてはあらず。
神よ、そは我自身なり。
(「「神への径」 美川漾子より)



最後の二行の前まで、ハーバードは自分の思いのたけを神様にうったえている。
彼がどれだけ穢れた罪人か。傲慢なものか。そして迷い出ている者か。

ところが、最後にハーバードは神様の声を聞く。
そして、私自身が穢れた罪人傲慢なものであることを受け取らされる。
同時に、この自分に向けられたイエス様の深い愛も受け取らされただろう。
ハーバードにとって「彼」は問題では無くなる。
ハーバードにとってこの自分の罪を許して下さった
イエス様の愛がすべてになる。

まさに、「自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねる歩み」の具現だ。

「愛を追い求める」歩みの一つの例として紹介する。

愛を追い求めなさい(4)へ
http://ittupikinonomi.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4912.html

0 件のコメント:

コメントを投稿