2014年1月12日日曜日

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (0)「愛を追い求める」歩みとは

※ この項を読むときには、まず、(0)を読み、その後(1)、(2)、(3)…と読み進めて下さい。


愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
という御言葉がある。
美しい言葉だが、どのような姿が「愛を求める姿」なのか、この御言葉だけではわかりにくい。
私たちはどのような姿を求めていけばよいのだろう。


これこそ愛であるという聖書箇所がある。

キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。(Ⅰヨハネ3:16)
似た箇所が何カ所かある。 ヨハネ3:16、ヨハネ15:13、ロマ5:8、エペソ5:2、Ⅰヨハネ4:10
イエス様は私たちの罪のために十字架にかかってくださり、私たちのそ罪を担って下さった。 そのことこそ愛であるというのだ。

このことから、「愛を追い求めなさい」とは、
「私たちのためにいのちをお捨てになったイエス様の愛を追い求めていきなさい」
といいかえることができると思われる。

Ⅰヨハネ3:16ではさらに言葉を続け、、「愛を追い求める」私たちの姿を明確に示す。
ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。(Ⅰヨハネ3:16)

イエス様は命を捨てて愛を示された。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てて、愛をすべきだというのだ。

「愛を追い求めなさい」とは、
「私たちも兄弟のために命を捨て続けていきなさい」
といいかえてもよい。

でも、一つしかない、私の命を捨て続けるとはどのようなことなのだろうか。
丹羽鋹之先生は自らの講解の中で明確に語っている。引用する。


「私はこうして生きているけれど私は死んだ者で、本当の私の命はキリストです。それが私たちクリスチャンです。そうであれば、私たちキリストにある兄弟姉妹の交わりは、お互いが死んだ交わりではありませんか。生まれながらの私は死んで、キリストにある一つの命にある交わりです。それが教会の交わりであり、クリスチャン同士の関係です。それならば、キリストは私たちのために死んで下さった、それを信じる私たちも兄弟のために死ぬのは当然であります。私たちは自分という者に死んだ者ですから、その交わりはお互いに死に合っていく交わりです。そこがこの世の交わりと全然違うところです。これが御霊にあってはっきりされていけば、交わりでお互いを主張するんじゃない、お互いに受け入れあっていく交わりになっていくでしょう。」
                (丹羽鋹之聖書講解「キリストの交わり」Ⅰヨハネ3:16~20より抜粋)

「交わりの中で自分を捨てていくこと、互いに死に合っていくこと」これが「愛を追い求めていく」具体的な姿の現れであるということだ。それは、自分の考え、自分の思い、自分の体験、自分の正しさそのすべてを捨てていくことでもある。
私たちは、「これが神様にある歩みだ」という確信をもつと、そのことで自分の正しさを主張してしまう。そして、互いに受け入れ合っていくことができなくなってしまう。そこから、数々のトラブルが生まれていく。そんな私たちに、Ⅰコリント13:4~7では、

「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。」

と語られる。

「あなたは、ここで示される愛がないことを認めよう。そして、自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛である私(イエス様)に一切を委ねて歩もう。すると、私(イエス様)愛の働きを喜びと感謝をもってみることができるよ」

とイエス様は語りかけておられる。そのように歩むことが「愛を追い求める」歩みだ。

愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1) (1)へ

2 件のコメント:

  1. 私たちキリストにある者の交わりとは、互いに死にあっていく交わりなのですね。交わりの中で、自己主張がむくむくと出て来て、それを、死んでしまったものと認めていくということでしょうか。ありが

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    1. 書き込みありがとうございます。
      丹羽先生の最後のメッセージ「愛を追い求めなさい」は今も私の心に響いています。
      今は、自分の愛のない姿を認めて、イエス様の愛にただおすがりする歩みが「愛を追い求める」ことだと思っています。

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