愛を追い求めなさい(Ⅰコリント14:1)
の説明をしてきた.
ここで、私の証を紹介する。
証
就職してから通っていたM教会のとなりに中学生のWさんが住んでいた。Wさんは、お母さんとのけんかが絶えなかった。そのたびにM教会にやってきては「許せない。絶対にゆるしてやらない」大声で叫んでいた。私は、その様子をみながら、「マタイ7章に『人を裁くな』と書いてあるのにと思っていた。ところが、ある日私は、神様からのせまりを受けた。
「おまえはどうだったのか」「おまえは人を裁いていないのか」
私は学生時代、T牧師をKGk(聖書研究会)の指導者であるM先生と比べていた。すると、どうしてもT牧師のメッセージは地味で力がないように感じてしまった。また、「制限速度40キロの道路では、(例え車の流れが50キロでも)絶対40キロ以上出さないと宣言するT牧師の姿に、「どうしてもっと融通を利かせることができないのだろう」と思っていたのだ。
私は、「神様ごめんなさい」と祈り、1年ぶりにT牧師に会いに行った。そして、「T先生、私は学生時代T先生を裁いていました。すいませんでした。」とお話しした。すると、T牧師はにこっと笑って、「知ってましたよ」とお話しされた。
このT牧師の言葉に私は心を動かされた。学生時代、T牧師はとてもよく私の面倒をみてくださった。私のために祈ってくださり、アドバイスもくださった。その一つ一つは、すべて私がT牧師を裁いたいたことを承知の上でのことだったのだ。私は、T牧師の愛情に深く感謝した。
不思議なことが起こった。その後、私のところに、T牧師の融通のきかない言動についての情報が入ってきた。でも、私は、その言動をなんのひっかかりもなく受け止めることができるようになっていたのだ。むしろ、「T牧師らしいなあ」とT牧師をあたたかい目でみている私がいた。
私は私にT牧師を導いてくださり、御手の中で導いてくださった神様に深く感謝した。
この証では、自分の思いをうったえる前に、神様のせまりがあった。
すると、牧師先生をさばく自分の姿が大きく浮かび上がってきた。
そして、T牧師の姿はそのままなのに、私自身の心が変えられた。
「自分の正しさを捨てて、自分は死んだものであることを認めて、命である、愛であるイエス様に一切を委ねる歩み」
それは、ただ、イエス様がなしてくださった愛の働きへの感謝で終わる。
愛の働きは型にはまらず予測不能。新鮮ですばらしい。
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